温泉旅行~沢北と
沢北くんと旅行は過去にも何度かしている。けれど温泉は初めてで、浮かれているのはわたしだけではなかったらしい。沢北くんの声もいつになく弾んでいた。
「温泉なんて子どものころ以来っすよ」
宿の部屋に通されて荷物を解くと、下着の替えと備付けのタオル、そして浴衣を手にする。まずはお風呂を楽しもうと決めていた。
「わたしも。最後に行ったのいつか思い出せないや」
「その時はどこ行ったんすか」
「草津だったと思う。親戚が住んでたの。沢北くんは?」
「オレはどこだったろ。すげーちいさいときだったんで場所は覚えてないんすよね」
そんな話をしながら大浴場まで歩き、男女で色の違う暖簾の前で二手に分かれる。
「わたしのほうが遅いと思うから鍵渡しとくね。先に部屋戻ってて」
「大丈夫っす。オレもせっかくだからゆっくり浸かろうと思ってるんで。先に出たとしてもその辺のマッサージチェアに座ってますよ」
「ほんと?それで大丈夫なの」
「はい。だから気にしないでゆっくり入ってきてください」
「わかった。沢北くんもね」
笑顔で軽く片手を上げて沢北くんは紺色、わたしはえんじ色の暖簾をくぐる。そして、広々とした屋内風呂と眺めのよい露天風呂を存分に堪能すれば、案の定先に出ていた沢北くんはわたしと同じ浴衣に羽織り姿でマッサージチェアに身をゆだねていた。
「ごめん、やっぱり待たせちゃったね」
「……あ、出たんすね。うとうとしてました」
「そんなに気持ちいいんだ。わたしもやろうかな」
「だったらあとでオレがやってあげます。上手いんすよ、マッサージ」
「そうなの?じゃあお願いしようっと」
「任せてください」
そこでちょうど時間になったのか、リクライニングしていた椅子の電動音が止まる。沢北くんは立ち上がると、わたしの手を取った。
「お待たせしました。行きましょう」
「うん」
湯上りで温まった手のひらを繋ぎ、部屋へと続く廊下を進む。なぜか徐々に口数の少なくなった沢北くんを不思議に思っていると、部屋の鍵を差し込むべくいったんほどいた手が再び掴まれた。
「少し外歩きませんか」
「いいけど。せっかくお風呂入ったのに」
「頭冷やしたいんです」
「え」
「さっきからずっとどきどきしてるの気付いてなかったんすか」
「急に喋らなくなったな、とは思ってたけど」
「緊張してたんすよ。さん浴衣だし髪上げてるし」
「少し前までマッサージしてくれるなんて言ってたのに」
「その格好であんなとこに座らせとくの嫌だったんすもん」
「複雑だなあ」
沢北くんの心理が可笑しくてつい吹き出せば「またそうやって笑う」と不満そうに咎められる。それに「ごめん」と緩む頬で謝り、ひとまず着替えやタオルを部屋の中に置いた。そして再び鍵を掛けると旅館の出口へ向かい、自由に散策出来る広い中庭をゆっくり巡る。やがて「すいません。もう大丈夫っす」の言葉で湯上りの散歩を終えたわたしたちは、適度に熱を残したからだでようやく部屋へと戻った。
「湯船でだいぶ火照ってたからいい感じにすっきりしたかも」
「歩かせた分までしっかりマッサージしますよ。横になってください」
まだ布団が敷かれていないので、座布団を並べた上に横たわる。わたしの大きさなら充分だった。
「日頃トレーナーにやってもらってるの覚えてるんでプロ並みっすよ」
「すごい楽しみ」
うつ伏せになったわたしの腰辺りを跨ぐようにして膝をつくと、まずは首すじから指圧が始まる。本人が豪語しただけあって、強すぎず弱くもない力加減は絶妙だった。
「……ほんとに気持ちいい」
「だいぶ凝ってますね」
「うん。普段デスクワークだから」
首から肩、腕、背中と揉むというより押す感じでじっくりとほぐされて、ツボに入るたび吐息混じりの声が零れた。
「ん……」
「……変な声出さないでください」
「気持ちいいんだもん」
抗議は意に介さずに、うっとりと目を瞑る。けれど、腰の辺りに指が触れて半分寝落ちしかけたところで「はい。ここまでっす」と心地よい刺激は急に打ち切られた。
「……終わっちゃった」
「すいません。いろいろ限界でした」
「指疲れたんでしょう。ごめんね、ありがとう」
「そうじゃなくて」
追求しようとしてはっとする。腰をほぐし終えたその先は、わたしとしてもこの明るい部屋の中浴衣一枚で触れられるには微妙な場所だった。
のそりと身を起こし、沢北くんと向き合う。互いにこの空気をどうしたものかと頭を悩ませていると、不意に部屋の電話が鳴って夕飯の仕度が整った旨を告げられた。
「……まずは食べに行きましょうか」
「そうだね」
なんともいえないタイミングに、顔を見合わせると同時に揃って照れ笑いを浮かべる。
しばらくして食事を終え戻ってきたわたしたちの前には、先ほどの続きを促すかのように二組の布団が並んで敷かれていて、僅かに戸惑ったわたしの肩を抱いた沢北くんが部屋の灯りを落とす。そのまま相手の帯に指をかけ、今度こそ途中で止まることなくわたしたちは互いのすべてに触れていったのだった。