キスより 吐息より


 晴れて付き合い始めたとはいえ、これまでの状態とほぼなにも変わっていない。
 オレは寮住まいで放課後も休みの日も部活だし、さんは実家暮らしだ。ゆっくり会う時間も場所も作るのは難しく、屋上で昼飯を食べるのがやっとだった。

「寒くないっすか」
「大丈夫。沢北くんこそ上着も着ないで平気なの」
「鍛えてるんで」
 にっと笑って見せれば返ってきた笑顔に、相変わらずドキっとする。いい加減見慣れてもいいはずなのに、毎度しっかりオレの鼓動は早鐘を打った。
「今日もパンだけみたいだけど、お弁当はもう食べてきちゃったの」
「はい。こんな時間までもたないっすよ」

 寮で持たせてくれる弁当が昼まで残っていた試しがない。大抵途中の休み時間で食べてしまっていた。
 それは今言ったように空腹に耐えかねてというのもあったけれど、この昼休みを有意義に使いたいからという理由が大きい。左手に弁当箱、右手に箸では両手が塞がってしまう。かと言ってオレだけなにも食べないのはさんが気を遣うだろう。
 だから、片手で食べられるパンをひとつ用意する。秘かに用意周到な舞台裏は、もちろん秘密だった。

「どんどん大きくなるわけだね」
 素直に言葉通り受け取ってくれたらしい彼女は、食べ盛りの子どもに向けるような目でオレを見上げる。完全に仰ぐような角度に自分との体格差を実感し、隣りにいるのが異性なのだと強く意識させられた。
 頭に熱が集いそうになるのをごまかすべくストローに口をつける。500mlのパックはあっという間に空になった。
「わたしも急いで食べるね」
「いいんすよ。さんはゆっくり食べてください。オレもパンあるし」

 さんが食べている隣りで他愛もない話をするのが好きだ。
 この為に用意したパンを齧りながら、あれこれ思い浮かぶままに話す。バスケのこと、普段のこと、ここに来る前のこと。彼女が知らないオレをいくらでも教えたかった。

「オレ生意気だったみたいで、中学ではあんまり周りに馴染めなかったんすよね」
「意外。今あんなにみんなから可愛がられてるのに」
「可愛がられてる……っすかね。昨日も河田さんに絞め技かけられたんすけど」
「それは沢北くんがひとこと多いからでしょう」
 可笑しそうに吹き出してさんは肩を揺らす。そして「ごちそうさまでした」をきちんと唱えると、食べ終えた弁当箱を鞄の中にしまった。
 やっと自由になったその手を、残りのパンを飲み込んですかさず握りしめる。ちいさな手のひらは同じように握り返してくれた。
「オレはいつだって事実を言ってるだけっすよ。ゴツイもイカツイもホントじゃないすか」
「いくら本当でも心に秘めておいたほうがいいこともあるの」
「無理っす。思ったことすぐ口から出ちゃうんで」
「裏表ないのが沢北くんのいいところだもんね」

 言うなりオレを見上げて瞳を細める。
 至近距離でその顔を見せられるのはヤバい。ただでさえ触れている指先が熱くてしかたないのに。

 この熱を逃がしたい。
 常に正直なオレのからだは、考える前に動き出していた。

「なに、どうしたの」
 くつろいでいたのを引っ張るように手を繋いだまま立ち上がると、入口から死角になる壁際まで足早に移動する。今まで座っていた出入り口の扉の目の前より、断然ひと目につかない場所だ。
 そこまで連れて行き、壁を背にして不安げな顔のさんから一度手を離す。向き合うなり両腕で囲い、腕の長さぶんだけできたわずかな距離でまっすぐに見つめた。
 きっと、それだけでなにかを感じ取ったのだろう。ちいさく響いた声は明らかに緊張していた。
「沢北くん、待って」
「待たないっす」

 オレの腕に掛けられた指の抵抗とも言えない弱い力は、なんの抑止にもならない。
 戸惑うように揺れていた瞳が伏せられたのを合図に、ゆっくりと肘を曲げ唇を重ねた。

 触れていたのはわずかなのに、はっきりと覚えているやわらかな感触。
 もう一度感じたいと思いつつ、これ以上はまずいとぐっと堪えて顔を離せば、まだしっかりとまぶたが閉じられている。
 折角我慢したのに――――無防備なその姿に、衝動的に両腕のなかへ抱きしめていた。

「……すいません。抑えられませんでした」
「びっくり、した」
「オレもっす」
 他人ごとのように零しつつ、こんなに本能の赴くまま動いた自分にオレ自身が驚いている。
 放心状態でやわらかな髪に顔を埋めていると、腕のなかからくぐもった声が響いた。
「沢北くん、お昼休み終わっちゃう」
「……はい」
「もうすぐ戻らなきゃいけないのに、このままじゃ戻れないよ」
 優しく諭されて、ゆっくりと腕をほどく。すると、完全に離れる前に袖口をぎゅっと掴まれた。
「すごいドキドキした。もっとお昼休み長かったらよかったのにね」
「え」
「わたしだって沢北くんと同じなんだよ」
 珍しく口早に照れたようにつぶいて、摘まんでいたオレのシャツから指を離す。
 すぐにその手首を捕えたものの、そこで予鈴が鳴り響いた。


 ――――残念。
 きっと同時にそう思った。
 それが間違っていないことは、しっかりとかち合ったいつもより濃く見える黒い瞳が証明していた。


「じゃあ、行きますか」
「うん」
「また明日楽しみにしてますね」
「わたしも」

 結んだ視線はここに来る前より親密さを増して、また一歩近づいた気がする。
 口にできないようなものを含め、したいことなんてまだまだたくさんあった。
 けれど、決して急いだりはしない。そんなもったいないことできるわけがない。これから覚えていくあれこれは、多ければ多いほどいいのだから。

 そのすべてをさんと一緒に知るのかと思うと次から次へと込み上げてくる感情があって、それらに翻弄される日々を考え高鳴る胸は、屋上をあとにしても止むことはなかった。