抱かれたい男が抱きたいのは


 その電話をもらったのは数日前のこと。
 ひとり暮らしをする部屋には一応電話を引いているものの、鳴ることはめったにない。かけてくるのは親か遠距離恋愛中の彼氏くらいで、この時間ならほぼ間違いなく後者だ。
「もしもし」
「あ、オレです」
 予想通り受話器の向こうから聞こえてきたのは大好きな声で、幸せに頬がゆるむ。よく通る快活な声は、何千キロという距離すら感じさせない。国際電話特有の間はあっても、すぐそこで話しているかのようにはっきりと響いた。
「今大丈夫っすか」
「うん。どうしたの」
「また載るんすよ」
「載る?」
 唐突に告げられた内容をすぐには理解できずに聞き返す。けれど「また載る」の言葉から思い浮かぶものがあった。
「もしかして」
「前と同じ雑誌っす」
「やっぱり。今回は何の特集なの」
「すげー言いにくいんすけど」
「前回だってなかなかだったじゃない」
 表紙を飾った上半身裸の沢北くんと、綺麗な外国人モデルの姿はしっかり目に焼きついている。いやらしさはまったくない美しいグラビアだったものの、裸を特集した女性誌に自分の彼氏が取り上げられるなんて思いもしなかった。
「あれ以上びっくりすることないと思うから大丈夫だよ」
「ほんとっすか」
「うん」
「今度は『抱かれたい男』らしいんすけど」
「えっ」
 思わず声を上げる。つい数秒前に口にした言葉は早くも撤回された。
「抱かれたい男って、毎回同じアイドルが選ばれてるあれでしょ」
「そうっす。たまたまアンケート取った時期にオレのCMが流れ始めたらしいからそれでじゃないすか」

 某大手化粧品会社から発売された、男性用制汗剤や洗顔料の新ブランド。そのイメージモデルに抜擢された沢北くんのCMは、わたしも何度も目にしている。街を歩いていても大きな看板広告はあちこちに設置されていて、よく知るひとの見慣れない顔をいつも落ち着かない気持ちで通り過ぎざまに眺めていたのだった。

「確かにあのCMや広告見たら選ばれるのもわかるかも。しょっちゅう目にするし」
「そんなに流れてるんすか」
「うん。CMもだけど広告いろんなとこに貼ってあるよ」
「マジっすか。来週帰るのに気まずいんすけど」
「今回はホテル取ったほうがよくない?」
「あー、そのほうがいいっすかね。家突き止められたりしたらさん迷惑っすもんね」
「わたしは構わないんだけど、沢北くんが変な記事書かれたら困るでしょう」
「オレは全然すよ。常々彼女いるって公言してるんで」

 そうだった。彼はそういうひとだ。
 以前別の女性誌のインタビューで自ら彼女の話をし始めて、対談相手の記者をびっくりさせたくらいなのだから。
 もっともその行為は「潔い」と称賛され、女性ファンからそっぽを向かれるどころか逆に好感度が上がったと聞く。結果オーライになったのは沢北くんのまっすぐで裏表のない人柄のおかげで、きっとイレギュラーなことに違いない。あまりに彼らしいエピソードだった。

「だから何書かれても困らないんすよ。隠すことないとこういうとき得っすね」
「そうだね」
「なに笑ってんすか」
「沢北くんのそういうところ好きだなって」
 思わず零れた本音に、受話器の向こうで嬉しそうな声が響く。
 結局、今回はいつも通りわたしの家に来ることにして、翌週を楽しみに通話を終えた。

* *

 あれから数日後。
 話に聞いていた雑誌を求めて書店に寄れば、平積みされた精悍な顔つきの表紙がすぐに目に留まる。まっすぐに見据える眼差しは鋭くも艶っぽくて、バスケット雑誌に載る写真とはまったく違って見えた。途端に速さを増す鼓動を押し隠して一冊手に取ると、そのままそそくさとレジへ向かう。 並んだ列には同じ表紙を手にしたひとが何人もいて、会計が済むなり足早に店をあとにすると、帰宅した部屋でどきどきしながら紙袋を開けた。

 ――――ひとりで見たくなかったらスルーしてくださいね。

 この前の電話で言われた通り、沢北くんが帰ってきてから一緒に見ればよかったのかも知れない。ページをめくるたび飛び込んでくる文言に、わたしはどんな顔をしていいかわからなくなっていた。

『顔もからだも正直ヤバい』
『厚い胸板に頬を寄せたいです』
『力強い腕で抱きしめて欲しい』
『ベッドの中では全然違う顔になりそう』
『あの目で自分だけ見つめてくれたら』

 願望をあらわにしたそれらの後ろには(25歳 会社員)(19歳 大学生)などと書かれていて、声の主をよりリアルに感じさせる。そのなかで、わたしの目を特に引いたのは次のコメントだった。

『彼女が羨ましい』

 そのあとに総評として『彼女の存在が公認されているのにこの人気』という一文があり、特集はそこで終わっている。何ともいえない気持ちで雑誌を閉じると、ちょうどそのタイミングで電話が鳴った。
「オレです。さっき成田着きました」
「長旅お疲れさま。空港大変なことになってない?」
「何回か囲まれましたけど大丈夫っす」
「ならよかった。移動はスムーズにできそう?」
「はい。あ、そろそろ電車来るんでいったん切りますね。じゃあまたあとで」
「うん。気をつけてね」

 本人は平気そうだったものの、無事に来られるのかな……と心配になりながら、いつ到着してもいいようにお風呂と部屋着の用意をする。一年ぶりに出したスウェットの上下は、購入したときに余裕をもったサイズにしたものの、もしかしたらもうぴったりになっているかもしれない。そのくらい、沢北くんは会うたび大きくなっている気がした。
 やがてインターホンが鳴り、急いで玄関の鍵を開ける。すぐに中に入ってもらい扉を閉めると、わたしが抱きつくより先に両腕の中へ包み込まれた。

「ただいまっす」
「お帰りなさい。あのあと大丈夫だった?」
「電車乗ってからは大丈夫でした。ずっとイヤホンで音楽聴いてたんで、声かけづらかったんじゃないすかね」
「それを狙ったんでしょう」
「当たりっす」
 へへ、と見せられた笑顔につられてわたしも微笑む。さっきまで目にしていた誌面のおとなびたよそゆき顔より、このほうがずっと沢北くんらしくて好きだと思った。
「あ。そこにあるの例の雑誌っすよね」
「うん。結局買っちゃった」
「嫌な気分にならなかったっすか」
「それは大丈夫だけど、なんか圧倒されちゃった」
「オレもっすよ。そもそも抱かれたいとか言われても困るし」
「困るの?男冥利に尽きるんじゃないの」
 半分くらい本気でそう思っていたので、冗談めかしつつ仰ぐ。すると「何言ってんすか」と呆れたように言って、わたしを抱く腕にぎゅっと力がこもった。
「困るに決まってるじゃないすか。抱きたいのなんてひとりしかいないっすもん」
 頭上で響く声にすごい言葉を告げられて、真っ赤になった顔を目の前の厚い胸板に埋める。そして、自分がされているのと同じように広い背中へ両腕を回した。
「意地悪言ってごめんね。わたしだって、ほかの誰も抱いてほしくなんてない」
「そんな気まったくないんで心配は無用っすよ」
「うん。ありがとう」
「てか」
「ん?」
「今すぐ、いいっすか」

 何を、なんて聞いたりはしない。わたしに向けられた熱っぽい眼差しははっきりと訴えていて、こくりとうなずくや否や唇が重なった。
 そのままもどかしい気持ちで寝室の扉を開けると、折り重なるようにベッドへもつれ込む。あとはわたしだけに伸ばされた腕の中で、存分に愛しまれたのだった。