雨のち晴れ 2


 最近さんが変わった気がする。

 あれは数日前のこと。渡米を控え退寮間近だったオレは、ふたりで気兼ねなく1日を過ごすべくどこかへ出かけようと提案をした。
「行きたかったとことかないすか」
「うーん。あんまり遠出はできないもんね」
 高校生のオレたちに使える移動手段は電車かバスしかない。もしくは自分の足で歩くのみだ。
「そんな遠くは無理でも電車乗ってどっか行きますか」
「そうしよっか。時刻表だけ確認しといて適当な駅で降りてみるとかでもいいかも」
「そーいうの楽しそっすね」
 正直行き先は二の次で、ここから少しでも離れられればよかった。
 なにせ地元では顔が割れすぎている。坊主頭とこの身長で山王バスケ部員なのは一目瞭然だし、しょっちゅう取材を受けることもあって顔どころか名前まで知れ渡っている上に、2年の途中で退部してまでのアメリカ行きを決めたことでよけいに注目を集めてしまった。とてもあの近辺でさんとのんびり過ごせるとは思えなかったのだ。

「じゃあ駅行きますか」
「うん」
 並んで商店街を抜ける途中、いつもより距離が近いのに気がつく。いままで外を歩くときは「ただの先輩後輩です」が通用するくらいの間を空けていたさんが、今日は珍しく腕と腕が触れる距離感から離れようとせずに、オレが思い切って握りしめた手のひらも、解こうとするどころかしっかりと握り返される。
「え」
「どうしたの」
「……いや、なんでもないっす」
 驚きのあまり零した声に、左隣りから大きな瞳が向けられる。オレを仰ぐその顔は、動じた様子もなくいたっていつも通りだった。
「どうしたの」はこっちの台詞ですと言いたかったものの、へたなことを口にしてせっかく繋いだ手を離されたくない。なので精一杯素知らぬふうを装い、そのまま駅までの道を歩いた。

 やがて駅舎が見えてきて、降りるときに清算しようとひとまず初乗りで切符を買う。上りでも下りでも先に来た電車に乗ろうと決めていた。
「下りが先に来るみたい」
「じゃあそっち乗りますか」
 しばしホームで待って、到着した車両に乗り込む。窓の外はどこまで行っても似た景色で変わり映えしなかったけれど、さんと一緒だと思えばすべてが新鮮でわくわくした。
「そろそろ降りる?」
「そうしますか。あんま遠く行って帰れなくなったら困りますもんね」
「うん」
 初めて降りた駅は地元のそれよりちいさく、あたりの風景もさらにのどかだ。
「ここ確か海が近かった気がする」
「そういえば電車からも海見えましたもんね」
「海岸まで出てみない?」
「いいっすね。そうしましょう」
 歩いているのは自分たちくらいで、なんの気兼ねもなく指を絡める。知らない土地の解放感は思っていた以上だった。
「日帰り旅行に来たみたいで楽しい」
「いつか泊りがけの旅行もしましょうよ」
「うん。絶対行こうね」
「行ってみたい場所とかあるんすか」
「沢北くんは?」
「オレは一緒ならどこでもいいっす。なんならここでもいいすよ。泊まるとこあるみたいだし」
「わたしも。沢北くんと一緒にいられるならどこでもいい」
 またもや意外な返答に驚く。基本恥ずかしがりなさんはなかなかストレートな物言いをしない。いまのだってこれまでだったら「うん。そうだね」か、せめて「うん。わたしも」だっただろう。こんなにはっきり「沢北くんと一緒に」を口にしてくれるのは初めてで、オレはまじまじと隣りのちいさな姿を眺める。そして、はっとした。

 デートの帰りに少しだけ遠回りしたがったり、自然と自分から腕に触れてきたり。
 さりげなさすぎて気づかなかったそれらは、別れる別れないにまで発展したあの大喧嘩のあとからだ。きっと、あのときオレが言った「もっと甘えてほしい」をさんなりに実行しようとしているのだろう。わかってしまえばそのいじらしさに、言葉にならない感情がこみ上げる。
 ――――どこまで可愛いんすか。まったく。

さん」
「なに」
「なんか言いたいことあるんじゃないすか」
「どうして」
「さっきからオレのこと見てますよね」
「……ばれてた?」
「いつ見ても絶対目が合うんすもん」

 そう。不思議に思っていたこれも、気づいてしまえば簡単だ。
 この身長差で自然と目が合うなんてことは、まずない。さんがオレを見上げているから視線がぶつかるのであって、どうしてそんなことをしているかといえば、なにかを訴えたいからだ。

「言ってくださいよ。誰も聞いてませんて」
「それはそうなんだけど」
「そんなに言いづらいことなんすか」
「……自分から口にするのが恥ずかしくて」
 そこで言い淀んだ赤い顔に、瞬時に答えがひらめく。もうじゅうぶん歩み寄ってくれたさんに、今度はオレが応える番だ。
さん、こっち」
 しっかり繋いだ手を引いて、もともとひと気の無い道のさらに細いわき道に入る。そして生い茂る木々の陰に隠れた。
「ここなら心配ないんで、目瞑ってください」

 衝動的にキスがしたくなるなんて、なにも恥ずかしいことじゃない。人目につかない配慮さえすれば、問題なんてないはずだ。
 木の幹に背を預けまぶたを閉じたさんが、そっと顔を上向ける。「よくできました」と「あと少しです」を心のなかで唱えて、今日のところはいつものように、オレのほうから唇を重ねた。