雨のち晴れ


 きっかけは些細なことだった。
 彼女が遠慮しすぎるとかオレがそれに文句を言うとか、本当になんてことのない痴話げんかだ。
 けれど、オレはしつこかったし彼女も引かなかった。その結果、声音が次第に棘を含み、双方の表情も空気もどんどん険しくなっていったのだった。

「それならもっと積極的なひとと付き合えばいいでしょう」
「どうしてそうなるんすか。オレは誰でもいいわけじゃないんです」
「いまのわたしが嫌ならわたしじゃなくていいじゃない」
「いつオレがそんなこと言いましたか。話そらさないでください」
「言ってるのと同じでしょう。沢北くんが不満に思うのはいつも同じことなんだから」

 彼女はふだん控えめで、たいていのことは笑って許してくれる。なので、今回も最終的には「しかたないなあ」で済ませてくれると思っていた。こんなにこじれるなんて予想もしていなかったのだ。

「わたしは遠慮なんてしてない。なのにどんなにそう言っても納得してくれないならどうしたらいいの」
「納得してないっていうか、もっと甘えてほしいんすよ。オレが年下だからダメなんですか」
「そんなの関係ない。沢北くんが年上だろうと同い年だろうとこれはわたしの性格なの。わかってるよね」
「わかってますけど――」
「でも不満なんでしょう」

 最後まで言えずに遮られた上、ずばりと言い当てられる。それが面白くなくて、ついオレの語調も強くなった。
「そうっすね。不満すよ」
 その言葉に彼女が傷ついた顔を見せる。慌てて「でもそういう性格だってことはわかってますし、あんまり頑なにならないでほしいだけっす」と続けようとしたものの、それより先に彼女の硬い声が響いた。

「だったら、もう別れたほうがいいんじゃない」

 なにを告げられたのか理解できず、瞬きをする。
 別れたほうがって、誰が。誰と。

「……は?」
「不満を抱えてまで無理して付き合い続けることなんてない。沢北くんならいくらでもいいひと見つかるよ」
 瞬時に自分の頭が覚めるのを感じる。いったいなにを言い出すのかとすっと血の気が引いたのち、全身が沸き立つような怒りを覚えた。
「なに言ってんすか。別れませんけど」
 一切の感情を押し殺し、固く口を結んで彼女を見据える。
 よほどすごい顔をしていたのだろう。明らかに怯えたようにびくんとすくめられた肩を、問答無用で引き寄せた。
「ずっと付き合っていきたいから不満だって口にするんすよ。別れてもいいなら喧嘩になる前に別れてます。喧嘩してでも一緒にいたい。だから、絶対別れないっすよ」

 それは偽らざる本心だ。どうでもいい存在ならば、もめごとなんて面倒を起こす前にとっくにさよならしている。
 変な意地を張るところも遠慮がちなところも、どんなに不満を抱こうが大好きな彼女の一部だ。そもそもそれらが芯の強さからくることもわかっているし、だからこそ受け入れたい。別れるなんて、なんの解決にもなりはしない。

「……そんなふうに思ってたんだ」
さんは違うんすか」
「違わない。わたしだって別れたくなんかない。なのに不満て言われたことで頭のなかが真っ白になって」
「それはすいません。でも続きがあったんすよ」
 そこであらためて、さっき言えなかったことを口にする。
「そういう性格だってことはわかってます。ただ、あんまり頑なにならないでほしい。いますぐ変えてくれなんて言わないんで、少しずつ甘えてくれたら嬉しいんです」
「……わかった。でも、どうしてそんなにそこにこだわるの」
「そこ?」
「甘えてほしいって」
「あー……」

 あまりカッコいい理由ではないので言うのをためらう。
 けれど、この際オレだって包み隠さず打ち明けるべきだ。

「オレ、あと少しでアメリカ行くじゃないすか」
「うん」
「それまでにたくさん記憶に残しておきたいんすよ。しっかりしたところはもうじゅうぶん目にしたんで、もっと違う逆の姿もいっぱい見たくて」
「……そうだったんだ。なのに、よりによって嫌な姿を見せちゃったね」
「それもいいんすよ。そういえばあのとき喧嘩したなあって懐かしく思えるから」
「ほんと前向きだなあ。わたしも見習わなきゃ」

 すっかりやわらかさを取り戻した声で言い、オレの胸に額を預ける。こんなふうに自ら距離を縮めてくるのは珍しく、きっと彼女なりに応えようとしてくれているのだろう。そう思うと無性に愛おしくなり、ありがとうの意を込めて両腕で包んだ。

「そんな感じでいいんです。じゅうぶんすよ」
「うん。ねえ、そういえばさっきから気になってたんだけど」
「なんすか」
「……さん、て」
「あ、バレてました?ずっとそうやって呼びたかったんすよね。だからどさくさにまぎれて呼んじゃいました」
 本当はオレのことも同じように名前で呼んでもらいたかったものの、彼女には彼女のペースがある。無理強いはしないと今回の件で決めていた。
「わたしもいつか呼べるようになると思うから、もう少し待ってね」
「いつまででも待ってます」
「ありがとう。……栄治くん」
「いま、なんて言いました」
「内緒」

 もう一度聞きたいところをぐっと我慢して、その代わりとばかりに抱き締めた腕に力をこめる。
 オレが自然と「さん」から「さん」に変えたように、さんにも「沢北くん」が「栄治くん(もしくはエージ)」に変わるタイミングがあるはずだ。彼女の性格からして時間はかかるかもしれない。けれど、いつまでだって気長に楽しみに待っていようと心に決めた。