ANSWER
「さん」
「いらっしゃい」
ここに来るのは決まって深津さんに用があるときなので、当人不在のときはいない理由を真っ先に告げられる。
なのに今日は違った。そんな、目新しい反応に心が躍る。
「なんすか。オレのこと待っててくれたんすか」
「どうしてそうなるの。ほんと沢北くんのプラス思考いいなあ」
丸い瞳をきゅっと細めて破顔したさんに、自分の顔が急速に熱くなったのがわかる。
表情ひとつでオレをどぎまぎさせるのなんて、このひと以外にいない。
「いらっしゃいなんて言われたら歓迎されてんだと思うじゃないすか」
少し不貞腐れて見せれば、まだ可笑しそうに「ごめん」と言って続けた。
「ここ数週間沢北くん毎日のように来るから、今日もそろそろかなって思ってたところだったの」
「それってやっぱり待っててくれたってことすよね」
「そういうことになるのかな」
かわされるかと思いきや、思わぬ返しに言葉が出ない。常に強気がモットーのオレが完全に動揺していた。
どういう意味なのか聞き出さねばと、前のめりに口をひらきかけたそのときだった。
「沢北またいるピョン」
「……だからなんで今なんすか」
冗談のようなタイミングで無情に響いた声に、座っていた椅子から崩れ落ちそうになる。
「あんまりを困らせるんじゃないピョン」
「困らせてなんて――――」
そこで言葉が詰まったのは、もしかしたらその通りなのかもしれないと思ってしまったからだ。さんは優しいから言わないだけで、本当は迷惑しているのかもしれない。
……いや、そんなはずない。
待っててくれたのか、という問いを否定しなかったじゃないか。
根っからポジティブなオレは、すぐに気を取り直して深津さんに息巻いた。
「深津さんが思うよりさんとは仲良いんすよ。深津さんが知らない話だって知ってるんすから」
言ってから「しまった」と思うも、遅い。
深津さんが知らないのは、深津さんには言えないからだ。
それはさんの想いで、本人が隠そうとしているのに暴くような真似をできるわけがなく、絶体絶命のピンチにオレは口をつぐむ。へたに繕えば墓穴を掘るだけな気がしてならなかった。
どうしてこう迂闊なのだろう、と頭を抱えたくなる。けれど、それを救ってくれたのはいつも通りの飄々とした声だった。
「が優しいからって甘えすぎだピョン」
下世話な興味を抱かないのは深津さんらしい。今ほどこのひとの無頓着さに感謝したことはなかった。
「それで今日はなんの用だピョン」
「……忘れました」
力なく言って立ち上がると、足取り重く出口へ向かう。申し訳なさすぎて、さんに合わせる顔がなかった。
++++++++++
その日はさすがに自己嫌悪に陥り、昼休みになっても食欲がなかった。
けれど、なにか食べないと放課後の練習に関わる。重い足取りで購買へ向かうと、誰かに後ろからぽんと背中を叩かれた。
「沢北くん」
振り向くまでもなくこの声はさんで、教室の外で会うのが初めてだったオレは、さっきまでの地の底から一気に舞い上がりそうになる。けれど、まずは先に言わなければならない言葉があった。
「さっきは本当にすいませんっした」
深々と頭を下げると「やめて」と笑いながら肩を押され、時間があるかと問われ屋上へ誘われる。ふたつ返事であとに続き、階段を上り切った先の重い鉄の扉を開けると、珍しく今日はしんとしていた。弁当を食べる穴場として人気の場所なのに、誰もいないのはラッキーだった。
「こんなところまで連れてきてごめんね。沢北くん目立つから」
「全然大丈夫っす。オレも邪魔されたくないし」
周りのうるさい目に晒されながらでは、落ち着いて話すこともできない。こんな機会はめったにないのに。
「さっきのこと気にしてるんでしょう」
「……はい」
「大丈夫だよ。深津くん知ってるから」
「えっ」
「わたしが深津くんに彼女いるの知ってるって前に言ったでしょう。あれね、告白して振られたときに聞いたの。もうだいぶ前だよ。1年生の終わり頃だから」
まったく気づかなかった。さんも深津さんも至って自然で、とてもそんな出来事が過去にあったようには見えなかったのだ。
ぎくしゃくすることも、気まずくなることもなく、隣りの席で普通に会話をする。
それが簡単じゃないことはオレ自身よく知っていた。告白されて断った女の子には、大抵そのあと避けられていたから。
たまに態度が変わらない子もいたけれど、その場合は少し経ってから「やっぱりダメかな」と再度告白されて、断れば今度こそそれっきりになるのが常だった。
だから、すんなりそれまでのクラスメイトに戻れたさんと深津さんが信じられない。
断られた引け目も断った負い目も、それぞれが持っているはずなのに。
けれど相手を思いやる気持ちが上回るから、今まで通りの関係を築けているのだ。
ふたりとも大人だ。敵わない。
「完全にオレの負けっす」
フェンスにもたれてずるずるとしゃがみこみ、体育座りの格好で膝に顔を埋める。
同じように隣りへ腰を下ろしたさんは、優しい声で話を続けた。
「そんなふうに言わないで。沢北くんには感謝してる」
思いもよらぬ言葉に、意気消沈はどこへやらでがばっと顔を上げる。
まっすぐに見つめた先には、空を仰いで晴れ晴れとした表情のさんがいた。
「沢北くんが深津くんのところに来るようになって、そのやりとりを聞いてるのがすごく楽しかった。いつも穏やかな深津くんが沢北くんには容赦なくてびっくりしたし、新たな一面を見られて嬉しかったから」
「オレはさんがさらに深津さんを好きになる手助けをしてたってことすか」
自分で言いながら再び落ち込む。もうなにも聞きたくなかったけれど、彼女の隣りにいられるこの時間は放棄できず、泣きたい気持ちでそのまま耳を傾けた。
「最初はそうだったかも。沢北くんのおかげで知らなかった深津くんを知ることができたから。でもね、最近気づいたの。シンプルに、沢北くんが来ると楽しいって」
急降下していた気持ちが一気に跳ね上がる。ジェットコースター並みの忙しさに、感情が追いつかない。
どういう意味か知りたくてひたすら横顔をじっと見つめていると、こちらに首を傾けたさんと目が合う。困ったように眉を下げつつ口元は緩く弧を描いていて、そのなにかに揺れ動いているような姿にオレは衝動的に両腕を伸ばしていた。
「すいません。これ以上なにもしないんで続きはこのままで聞かせてください」
胸元に埋めたちいさな頭に、そっと顎を乗せる。最初は驚いた様子で身を竦めていたさんも、徐々に緊張を解いてくれたらしい。抵抗はせずに、落ち着いた声を響かせた。
「前にわたしのことを好きって言ってくれたでしょう。あのときはただびっくりしただけだったんだけど、その後も毎日やってくるのに返事を求めてこないのがすごく意外で戸惑ってたの」
「意外……っすか」
「沢北くん自分で言ったじゃない。まどろっこしいのが嫌いって」
「言いましたけど、それとなんの関係があるんすか」
「すぐに応えられないなら待たないと思ったの。1日か2日経てば吹っ切るだろうなって」
このひとはなにを言っているんだ。その程度なら深津さんを好きだと知った時点で終わらせている。
それができないから宣言したのだ。単純に、正直な自分の気持ちを。
「オレはさんに好きだって言いましたよね。付き合ってって言ったんじゃないっすよね」
「うん」
「そういうことすよ。オレが勝手に好きなだけなのに返事もなにもないじゃないすか」
妙にすっきりとした気分で、腕のなかのさんを見下ろす。すると、ずっと埋められたままだった顔がおもむろに上向いて、至近距離で視線がかち合った。
「わたしもそろそろ進もうと思う」
「え」
「深津くんに振られてから1年以上経つのに、変わることが怖くてずっと立ち止まってた。でも、最近やっと次に進めるかもって思えるようになったの。沢北くんがくれる賑やかな毎日が楽しかったから」
自分の心臓がうるさくて、さんの声がよく聞こえない。もっと近くで告げて欲しくて、唇に耳を近づけた。
「それはどういう意味っすか」
「沢北くんと向き合いたい」
最後まで聞くなり、両腕にぎゅっと力をこめて抱き締める。もう遠慮はいらなかった。
「改めて言います。オレと付き合ってください」
「……はい」
はっきり聞こえた二文字に、鼻の奥がつんとする。己の涙もろさはよくわかっているので、ぐっと堪えて瞬きをした。
「もう深津さんを理由に教室行かなくていいんすよね」
こくりとうなずいたのを見て、回した腕に力が入るのを抑えられない。
昼休みの終わりが告げられるまで腕のなかの温もりを感じ、離れ難いまま屋上をあとにする。けれど、その代わりに自然と手のひらが繋がれていて、絡めた指がオレたちの始まりを象徴していた。