スターゲイザー
「ただいま」
身に付いた習慣で無意識に口にするも、当然のごとく応える声はない。
しんとした部屋の電気を点けながら上着を脱いで荷物を置く。そのままソファに倒れ込むと、今日一日を振り返った。
アメリカに来て数ヶ月。なにもかもが刺激的で、毎日があっという間だ。日本にいたころにはほとんど覚えたことのない「食らい付いてやる」という貪欲な気持ち。なにかに挑戦する日々はこんなにも楽しいのかと、初めての充実感でいっぱいだった。
とはいえ、それだけを享受していられるほど甘い世界ではない。ぶつかる壁も与えられた課題も、ひとつひとつクリアしなければ前に進めないし、立ち止まっていれば即座にふるい落とされる。そして、目下の壁は新しいポジションだった。
山王にいたころの河田さんを思い出す。からだが大きくなるにつれてポジションをチェンジされ、けれどそれに対応してしっかり結果を残した。
河田さんにできたんだから、オレにだってできるはずだ。そう思ってはみたものの、河田さんのパターンとは逆になる、大きいポジションからちいさいポジションへのチェンジは、予想以上に難しい。これまでボールを受けてシュートを決める側だったのが、今度はボールを運んで攻めの起点をつくる側になるのだ。ボールをもらう側は自分に向け飛んでくるパスを受け、あとは確実にゴールを狙えばよくても、運ぶ側はどこが空いていてその先どう動くか考えた上でパスを出さねばならない。自分でシュートにいくこともあるとはいえ、基本ほかの誰かが点を取るためのアシストをする役割だ。こっちでPGにコンバートされて、いかにこのポジションが難しいのかを改めて実感していた。
「深津さんてすごかったんだなー」
高校時代の先輩を思い出して独り言ちる。パスやドリブルなどのボールさばきはもちろん、ディフェンスのしつこさもシュート力の高さも相手には脅威だっただろう。ある種理想のPGだ。
けれど、オレが同じタイプを目指してなれるかというと、また少し違う気もする。そのへんはまだ模索中だった。
「風呂でも入るか」
帰宅してからもずっと考えるのはバスケのことで、シャワーを浴びながら「ほんとオレってバスケさえあれば幸せなんだなー」なんて思ったものの、すぐにコックをひねりながら「……ちがう」と呟く。
バスケがあれば幸せなのは間違いない。けれど、どうしても必要なものがあともうひとつあった。
この部屋に持ち込まれた、さまざまな彼女のかけら。海を越えて届く手紙や、渡米前一緒に撮った写真。そして、もったいなくて開封できずにいる餞別のリストバンド。練習中いつも身に着けておきたいと思ったそれは、初っ端からなにかを支えにしなきゃいけないようじゃダメだと、そのときがくるまで開けずに取ってある。何度か開けたくなったことはあったものの、いまのところすべて乗り切ってこられたし、まだまだいけるはずだ。そんなふうにそれらはただの『もの』ではなく、彼女そのもののごとくオレを奮い立たせる存在だった。
バスルームを出ると、からだを拭いながら部屋へ戻る。そして、ひとつの引き出しを開けて中身を取り出すと、懐かしい筆跡に視線を落とした。
「久々に声聞きてーなあ」
リストバンドは封印したままだし、たまには自分へご褒美をあげてもいいはずだ。都合よく理由をつけて、日本との時差を調べる。今日は日曜日だし問題なさそうだった。
「よしっ」
早速受話器を取ると、すっかり覚えた手順で番号をプッシュする。国際電話特有の呼び出し音が鳴ったのち「はい」とこの世で一番聞きたかった声を耳にしたオレは、深呼吸して口を開いた。
「さんすか。オレです。沢北です」
いますぐ話したいことが、たくさんあった。