あの日 あのとき あの場所で


「足元気を付けてください」
 言いながらわたしの手を取って、沢北くんが半歩先を歩く。傾斜のきつい石段は幅も狭く、なにより段数が多くて息が切れそうだった。
「ここを駆け上がってたって信じられないんだけど」
「いまでも余裕っすよ」
 すぐにでも駆け出しそうなのを止めて、差し出された腕にすがり付きながらどうにか最後まで上りきれば、肩で息をするわたしに「きつかったすよね。すいません」と労わるような声が頭上から響いた。
「ううん。わたしも来たかったから大丈夫」
「ならよかった。どうしても一緒に来たかったんすよ。たぶん一生忘れられない場所だから」
 いま上ってきたこの長い石段を、高校生だった沢北くんはトレーニングに使っていた。そして、目の前の古い社殿で願いごとをした。なにを願ってどうなったのかは、過去に聞いたことがある。それは、前途洋々だった十七歳の少年にはあまりに苦い経験だった。彼のなかで消化するにも時間がかかったのだろう。話してくれたのは、渡米する少し前のことだった。

* *

「負けた経験が財産になるって監督に言われたときに、あの日神社で祈願したのを思い出したんすよね。確かにオレがしたことない経験て負けることだけだったんすよ」
「それもすごいよね」
「そうなんすけど、そんなの当たり前だと思ってて。勝つこと以外頭になかったから」
 ひとによってはとてつもなく傲慢に聞こえるだろう言葉も、沢北くんが言うとすんなり耳に入る。それは、そう発言するだけの実力が幼いころからの積み重ねで得たものだと、わたしが知っているからだろう。
「だから監督の言葉がすぐ結びついたんすけど、なかなか受け入れられなかった。負けって黒星とか土がつくっていうじゃないすか。それがなんで財産なんだって」
「うん」
「でも、段々わかってきたんすよ。負けるとあんなに悔しいんだって。だから勝つことに貪欲になるんだって。それに、勝負は絶対がないから面白いんすよね。常に勝ってたときはそれがわからなかったんすけど、そう思った瞬間すとんと落ちてきたんすよ」
「気持ちに整理がついた?」
「はい。これですっきりアメリカに行けます。向こうでの心構えもできたし」
 晴れやかな顔で伸びをする沢北くんの、正面におもむろに立つ。「どうしたんすか」と不思議そうに向けられた眼差しに、ちいさく息を吐いてずっと告げたかった言葉をわたしは口にした。
「勝負に絶対がないのと同じで、なにごとにも絶対はないんだろうけど、それでもひとつだけあると思ってる。あのね、沢北くんなら大丈夫。それだけは絶対だよ」
 いくら沢北でもアメリカでは厳しいだろう――そうささやく周囲の声を耳にしたことがある。そんな心無い批評を否定したくてきっぱりと言い切れば、驚いたように目を瞠った沢北くんはわたしを引き寄せるなり両腕のなかできつく抱き締めた。
「最高のエールっす」

* *

 当時の会話が甦り、あれからさらに時を経てこうして並んでいるのを感慨深く思う。
「連れてきてくれてありがとう」
「今回が第二のターニングポイントっすからね」
「その報告もするの」
「もちろんすよ。必要な経験をして必要なひとも得ました、ってね」
 顔を見合わせて笑ったのち、社殿の前に並んで目を瞑る。顔の前で合わせた両手の、左の薬指に光るおそろいの指輪。生涯を共にする伴侶としてここを参拝するのは、とても神妙で身が引き締まる気持ちがした。

 しばしののち目を開けて、互いに隣りへ視線を向ける。
「なにをお願いしたんすか」
「内緒」
「気になるじゃないすか」
「口にしたら叶わない気がするんだもん」
「確かに」
 素直に納得されて笑みを零すと、沢北くんの手を取る。ぎゅっと握り返されて、その力強さが心地よかった。
「じゃあ行きますか」
「うん」
 深々と一礼して、社殿をあとにする。
 互いに同じことを願ったのは知らぬまま、一歩ずつ歩幅を合わせて石段を下りて行くわたしたちに、両脇に立ち並ぶ木々の隙間から零れるまばゆい光が、まるで祝福してくれるかのように注がれていた。