UNSPEAKABLE


「オレたち付き合ってるんすよ」
 真剣な顔でそう言われても、名前すら思い出せずにわたしは困惑する。
 頭のてっぺんだけ少し髪を残した坊主頭の彼は、意志の強そうな眉と目が印象的で、十人いれば十人が格好いいと言うだろう。それほど整った容姿をしている相手と自分が付き合っていると言われても、いまのわたしは嬉しいどころかただ戸惑うだけだった。
「ごめんね。なにもわからないの」
 正直にそう答えると、相手の表情が瞬時に曇る。こんなに悲しい顔をさせるくらい、このひとはわたしに近い存在だったのだろう。自分自身、思い出せないのがもどかしくてならなかった。
「ほんとになにも覚えてないんすか。オレ以外のひとのことも」
「思い出したひとはいる。あなたは深津くんの後輩だって聞いた」
「あなたじゃなくて沢北です」
「さわきた、くん」
 教えられた名前を、一語ずつ口にする。
 さわきたくん――初めて聞いたはずなのに、頭のなかで「沢北くん」の文字がすっと浮かぶのはどうしてなのだろう。
「沢北くん……は学年も違うのにどうしてわたしを知ってるの」
「深津さんに用があってよく教室行ってたから」
「そうなんだ。わたしと深津くんが仲良かったのかな」
「仲良かったっていうか……」
 そこで沢北くんは言いよどむ。けれど、濁したまま話を先に進めた。
「深津さんの隣りの席だったんすよ。で、オレに親切にしてくれて」
「それがきっかけだったんだ」
「そうっす。ほんとになにも覚えてないんすね」
「だからそう言ったじゃない」
「……すいません」
 わたしの声に混じった微かな苛立ちに、さっきよりも悲しそうな顔をして沢北くんが謝る。きっと、彼の知るわたしはこんな物言いをしなかったのだろう。そう思うと心が痛んだ。
「こっちこそごめんなさい。わたし自身なにも覚えてないことがもどかしくて仕方ないの。だから八つ当たりしちゃって」
 本当にごめんなさい、と繰り返せばふっと沢北くんの口元が緩む。
「そういうところは変わらないっすね」
「そういうところ?」
「真面目で優しいところ。やっぱり好きっすよ」
「……ありがとう」
「オレのことも、また好きになってくれませんか」
 流れで「うん」と答えてしまえればいいのに、沢北くんの真摯な眼差しがわたしを押し止める。いまの段階で期待を持たせるようなことを口にはできなかった。なので、正直な気持ちを告げる。
「そうなれたらいいと思ってる。沢北くんの気持ちは伝わったし、そこまで想ってくれるくらいわたしも沢北くんを好きだったんだと思うから」
 その言葉に複雑そうな顔をして、沢北くんはひとつ息を吐く。そして言った。
「いまはそれで良しとするんで、明日体育館来てくれませんか」
「体育館て、学校の?」
「そうっす。練習試合やるんで放課後観に来てください」
 なんの試合かと問いかけて、深津くんの後輩だったことを思い出す。ということはバスケだろうし、そこの部分を尋ねてはいけない気がした。
「わかった。忘れずに行くね」
「なんの試合かわかってるんすか」
「バスケでしょう」
 わたしの答えにぱっと顔を輝かせた沢北くんを見て、聞かなくて良かったとほっとする。
 たぶん、バスケがキーワードなのだ。それすら忘れていると知ってしまったら、どれだけ傷付けたかわからない。もうこれ以上暗い顔をさせるのだけは、絶対に嫌だった。


 そして翌日。わたしはひとりで体育館へ向かった。驚いたことに体育館の二階部分に設えられた観覧席はたくさんのひとでいっぱいで、かろうじて空いていた後方の席に腰を下ろす。コートの上では自チームと相手チームが両サイドに分かれて試合前のアップをしていて、自然とわたしの目は沢北くんの姿を探していた。
 普段1対1で向き合っているときは圧倒的に大きいのに、部員の中に混ざるとそこまで飛びぬけてはいない。けれど、動きの俊敏さやボール捌きの上手さで誰よりも目を引く。それは試合が始まると一層強烈で、常にコートの先を走る脚力もシュートの正確さも豪快に決めるダンクも、この会場で頭抜けて沢北くんが優れた選手なのは一目瞭然だった。

「沢北くん、凄いバスケ上手いんだね」
 その日の夜、あらかじめ少しだけ時間が欲しいと言われていたわたしは、家からすぐそばの公園で沢北くんと待ち合わせた。寮生の彼は就寝前の自由時間に抜けて来ているので、そんなに時間はない。なのでどうしても伝えたいと思ったことを真っ先に口にした。
 けれど、それに対する反応は微妙で、沢北くんが少なからずショックを受けていることを悟る。「なにがいけなかったんだろう」と当惑していれば、そんなわたしに「いいんすよ」と言って沢北くんは続けた。
「ほんとに全部忘れちゃったんすね」
「……ごめん」
 前に同じことを言われたときに覚えた憤りは無く、あるのは申し訳なさだけだ。そのくらい沢北くんの声は寂しそうだった。
「大丈夫っす。こんなもんじゃないんで」
「え」
「さっき、凄いバスケ上手いって言ってくれたじゃないすか」
「うん」
「でもあんなもんじゃないんで。だから、思い出せなくてもまたオレに惚れますよ」
 その顔は自信に満ちて、少し前までの沈んだ様子はどこにもない。きっと、この姿こそが本来の沢北くんなのだろう。
「こんな時間に呼び出してすいません。送るんで行きましょう」
 至って当たり前に差し出された手をそっと握る。手のひらになじんだ温かさを、不思議とわたしはよく知っている気がした。