ルカワとカノジョ


 ドアの開く音がする。「お帰り」と玄関まで行って出迎えれば、いつもなら「ただいま」と笑顔を見せる彼は珍しく険しい顔で、挨拶も抜きに口を開くなり言った。
「今日何してましたか」
「今日?」
 唐突に問われて返事に詰まる。特にこれという何かをしていた訳でも無く、掃除をしたり夕飯の用意をしたり、こっちでのいつもの日常を送っていた。だから即答出来なかっただけなのに、珍しく沢北くんは刺々しい声で詰問を続ける。
「言えないんすか」
「何も変わったことしてないから直ぐに答えられなかっただけだよ」
「じゃあ何してたんすか」
「いつも通り家の中のことしたり夕飯の買い物に行ったりだけど」
「ひとりでですか」
「そうだよ」
「本当に?」
 ここが日本ならまだしも、沢北くん以外知り合いのいない地で誰と行くというのだろう。彼の言わんとすることが分からずにわたしは困惑する。
「本当だよ。そもそもわたしにこっちで知り合いいないことなんて知ってるでしょう」
「いるじゃないすか」
「え?」
「流川知ってますよね」
「ルカワ……?」
 いきなり出された名前が頭の中で結びつかず、暫し考えた後ひとつの顔が浮かぶ。以前沢北くんの練習試合を観に行った際、唯一見掛けた日本人が流川くんだった。
「前に沢北くんの試合観に来てた流川くん?名前と顔は知ってるけどそれだけだよ」
「とぼけないで下さい」
「もう。一体なんなの」
 ずっと訳の分からない苛立ちをぶつけられて、さすがにわたしも声を荒げる。すると、少し怯んだのか、沢北くんの声が僅かにトーンダウンした。
「見たんすよ。流川と歩いてるの」
 さっきまでの険しさは薄れて、わたしの答えを辛抱強く待っているような、どこか焦れた眼差しが真っ直ぐに注がれる。お蔭で昂りつつあった気持ちはその瞳に鎮められ、憤りが去った後は言われたことを理解すべく内容を繰り返した。
「わたしが、流川くんと、歩いてた……?」
「別に疚しいことが無いならいいんすよ。隠さないで欲しいだけで」
「ちょっと待って。疚しいとか隠すとかの前に、そんな事実が無いからどんなに訊かれたって話すことが無いの」
 同じように真っ直ぐに見上げてきっぱり言い切れば、沢北くんの顔に戸惑いの色が浮かぶ。自身の中で問答をした結果、取りあえずわたしの言うことを信じてくれたらしかった。
「じゃああれ誰なんすか」
「わたしの方が訊きたいよ。そんなに似てたの」
「遠目にはそっくりでした。背の高さも髪の長さも体型も」
 わたしの背の高さは日本人の平均くらいだし、体型もそうだ。髪は長くも短くもないミディアムで、正直これと言った特徴は無い。故に異国で見掛けた邦人の女の子なら、余程どれかが突出していない限り遠目で見たら似て見えるもんなんじゃないかと思う。なので、一番高いであろう可能性をわたしは口にした。
「それ、普通に考えて流川くんの彼女なんじゃない?」
 むしろ何故真っ先にそれが浮かばずわたしだと思い込んだのかが不思議で仕方ない。けれどその疑問は次に続いた言葉で直ぐに解決した。
「流川の彼女って、そんなこと思いもしなかったっすよ。あんな無愛想で失礼なヤツに付き合える相手いるんすか」
「流川くん格好良かったしいたって不思議じゃないでしょう」
「あいつカッコいいっすか」
「もう。また変なとこで突っ掛るんだから」
 驚いたり面白くなさそうだったり忙しい沢北くんに、わたしの頬が自然と緩む。渡米して以来すっかり大人びたと思っていたけれど、こういうところは変わっていなくてそれが無性に嬉しかった。
「流川くんは格好良いと思うけど、わたしにとって沢北くんはそこに好きも加わるの。それでも不満?」
年上ぶって諭すように大きな身体を仰ぐ。すると、ああもうという風に頭を掻いて唇を尖らせ、拗ねたような声で沢北くんは零した。
「不満な訳無いし、そう言われたら何も言えないじゃないすか。ずるいっすよ」
「潔白なのに疑われたお返しです」
「……すいません」
「じゃあ、やり直しね」
 先程と同じようにもう一度わたしは「お帰り」と伝える。すると、いつも通りの「ただいま」の声が頭上で響いて、今日一日待ち望んだ両腕の中にようやく包み込まれたのだった。