WINTER SONG


 本人のイメージはどちらかと言えば夏なのに、わたしが彰を思い出すのは決まって冬だった。
 暑い盛りに行われる大会や、青空の下での磯釣り。共有した時間のほとんどは明るく眩しい。
 けれど、別れを決めたという一点だけで、彼を結びつけるのは曇天のこの季節に変わってしまった。

 もう5年が経つ。その世界では名の通った選手故に、専門誌を開けば現状は容易く分かる。
 本屋に寄る度知りたい衝動を堪えるのに苦労したものの、最近では素直に応援出来るようになった。
 それだけ自分の中で整理され始めたのだろう。これでようやく想い出に変えられると、内心ほっとしていた。


 その日も雑誌コーナーで、発売されたばかりの週刊バスケットボールをわたしは捲っていた。
 当然のように今週号にも彰の記事は載っていて、表情まで分かる大きさの写真に少しだけ胸が疼く。
 添えられた文章にも目を通し、次のページへ指を掛ける。同時に、右隣に立っている人の手が遠慮がちにわたしの前へ伸ばされた。
「ごめんなさい」
 自分が邪魔になっていたことを謝って、僅かに左へずれる。けれど、一向に取る気配は無く、訝しく思い横目で様子を窺うと、はっとするほど長身の男性が驚きを露わに見下ろしていた。
「やっぱりだ」
「……彰」
 急いで開いていたページを閉じ、平積みの一番上へ戻す。逃げるように書店を飛び出せば、直ぐに後を追って来た大きな影に腕を掴まれた。
「久々に会ったのにそれはねーだろ」
 全く息を切らせもしない、困惑した声がわたしを咎める。解くのは無理だと悟り、仕方なく後ろを振り返った。
「ごめん。ちょっとびっくりしちゃって」
「変わんねーな。全然」
「彰こそ」
 高校時代から上背があり、どことなく大人びた風貌だった。多少また身体は大きくなったように感じたものの、全体から受ける印象は当時と変わっていない。いっそ知らない人になっていてくれれば良かったのに、とわたしは少々恨めしかった。
「実業団に入ったんでしょう。凄いね」
「今年からな。はどうしてた」
「去年転職した――って言っても前に居た会社自体彰は知らないよね」
「だな。高校卒業以来どーしてたのかさっぱり」
 共通の友人もいないし、当然だろう。わたしが一方的に知っているのは、ひとえにメディアのお蔭だ。
、この後何か予定ある」
「特に無いけど」
 正直に答えてからしまったと思う。
 訊いて来るからには彰も同様なのだろう。先の展開はひとつしか無かった。
「折角だし少し話そーよ」
 有無を言わさずわたしを連れて、彰の足は駅へと向かう。同じ制服を着ていた頃毎日乗った電車は、時が止まったかのように昔のままだった。

 20分程揺られ、予想通りのホームに降りる。幾つになっても一番好きな景色だった。
「懐かしいね」
 ひっきりなしに車が通る国道を、信号が変わるのを待って渡る。強い海風に肩を竦めれば、無造作にぐるぐるとマフラーが巻かれた。
「貸しとく」
「ありがとう」
 手編みかな、なんて一瞬思った自分に苦笑し、誤魔化すように口元を埋める。足元に気を付けながら浜辺へ続く階段を下りると、座るのに都合の良い場所を探した。
「あの辺にしようか」
「そーだな」
 充分な広さを持った平らな岩を見付け、並んで腰掛ける。冬の陽は既に傾き始め、遠目に見える江ノ島を穏やかに照らしていた。
「海眺めるなんて久し振り。懐かしいなあ」
の家逆方向だったもんな」
「うん。卒業してから何回かは来たけど、ここ暫くは無かったかな」
 この景色は彰との想い出があり過ぎて、ひとりで眺めるのが辛かった。
 勿論、そんなことはおくびにも出さず、規則正しく繰り返す波を見つめ続ける。
「彰は。もうこの辺には住んでないんでしょう」
「ああ。寮に入った」
「釣りしにくくなっちゃったね」
「元々卒業してからはそんなにやってなかったからな」
「そっか。じゃあ来る理由も無いよね」
 自分自身もここから遠のいていたくせに、彰も同じだと知ると寂しくなるのは只の我が儘だ。
 それは理解しつつ、何もかもが遠くなってしまったようで、込み上げる切なさに息が苦しくなる。暫し黙り込んでしまえば、躊躇いがちな声音が響いた。
「つーかさ、さっき気になったんだけど」
「うん」
、週バス見てたよな。オレが実業団入ったのもそれで知ったんだと思うけど」
 咄嗟に切り返すことが出来ず、わたしは狼狽える。返事を待たずに彰は続けた。
「もしかして、ずっと気に掛けてくれてた」
 隣から真っ直ぐな視線を感じる。
 こんな風に見つめられるのは別れを選んだ時以来で、受け止めきれずに立ち上がると、波打ち際へ一歩進んだ。

「そのままで聞いて」
 腰を上げようとした彰を制し、深呼吸する。幾ら考えたところで纏まりそうになく、浮かんで来るがまま言葉を紡いだ。
「雑誌で彰を探せるようになったのは最近。それまでは怖くて見れなかった。折角少しずつ忘れてたのに、ちょっとでも見ちゃえばきっと全部思い出しちゃうから。でも、やっと普通に読めるようになったの。ようやく、彰を過去に出来たの。なのに」
 もう一度息を吐いて、ゆっくりと向き直る。見据えるふたつの瞳は真剣そのものだった。
「今日で振り出しに戻っちゃった。また一からやり直しだよ」

 自分で思っていたよりずっとわたしは彰に囚われていて、今日の再会が無くてもいずれはこうなっていたのだろう。5年間も誤魔化し続けられたのが奇跡だ。
 認めてしまえば心は軽く、おもむろに借りていたマフラーを首から外す。
 そして、座ったまま居てくれる彰に「じゃあね」と告げて返せば、渡し終えた手首を強い力が捕えた。

「何で」
「……え」
「一からやり直すんだろ」
 呆然と立ち尽くしていれば、返したばかりのマフラーが改めて巻かれる。
 しれっとした顔の彰は適当な結び目を作るなり「よし」と言って、長い両脚の間に後ろ抱きの格好でわたしを座らせた。
「ちょっと、彰」
「またこっから始まるのもいーよな」
 包まれた胸の温かさに、困惑も動揺も呆気無く掻き消される。
 彰の腕の中は昔と変わらなくて、ずっと戻りたいと願い続けた場所だった。

 どこまでも冷たく澄んだ空気に、吐く息の白が浮かんでは消える。
 雪を想わせる冬の色は、まっさらな始まりを迎えたわたしたちに馴染んで、面映ゆい幸せをそっと噛み締めた。