世界でいちばん熱い夏
親友のがバスケ部の越野くんと付き合い始めたのは先月のことだ。
もともと入学当時から相手を憎からず思っていたふたりは、同じ委員会になったのをきっかけに急速に距離が縮まったらしい。今では一緒にいるのが常で、気づけばおまけのようにそれぞれの身近な者同士、わたしと仙道くんも行動をともにすることが増えていたのだった。
その日も男性陣の練習が終わるのを待って、すっかり陽の暮れた学校を4人であとにした。自然と分かれた2対2で並び坂道を下っていると、ほぼ下り切った辺りでが短く「あ」とつぶやく。
「教室に定期入れ忘れちゃった。ごめん、取ってくるからちょっと待ってて」
「暗いし一緒に行くって。悪い、仙道たちは先行っててくれ」
この時間はひと通りも少ない。越野くんが心配するのはもっともで、しきりに「ごめんね」と謝るに「気にしないで」と笑みを見せて手を振れば、遠ざかる影はやがて校門の向こうへ消えた。
「じゃあ行こーか」
「うん」
残されたわたしたちは、再び並んで歩き出す。すると、駅のほうへ曲がる手前で不意に仙道くんが足を止めた。
「どうしたの」
「ちゃんまだ大丈夫?」
こんなふうに誘われるのは、決して珍しくない。初めは戸惑っていたわたしも、今ではいつものことゆえ驚きもせず頷く。角にあるちいさな公園のベンチは、最近の指定席となりつつあった。
「門限にはまだ余裕あるし大丈夫だよ。そこで座る?」
「いや。今日は少し歩こう」
仙道くんが歩み出したのに続き、線路と横断歩道を渡る。その先は砂浜へと降りる階段のみで、大きな背中を追うようにして一段ずつ下っていった。
「もっと花火やってるひととかいるかと思ったのに誰もいないね」
「だな。うるさくなくて良かった」
すぐそこに国道が走っているものの、浜辺の明かりは無いに等しい。仙道くんの白いシャツだけが目印で、はぐれないよう隣りを歩いた。
「腕掴まっていーよ」
「ううん。大丈夫」
「ちゃんが大丈夫でも、オレが心配だから掴まってほしいんだけど」
どきりとする台詞に、それ以上拒否できなくて言われたとおりに指を掛ける。申し訳程度に袖口をつまんでいれば、大きな手のひらによってしっかりと二の腕に絡められた。
「ちゃんと掴んでてくれないといなくなってもわかんないよ」
「あ、うん。ごめん」
どぎまぎするわたしをよそに、いたって普段と変わらなく言われかすかに胸が痛む。仙道くんにとってこんなことは何でもないのだと、あからさまに見せつけられた気がした。
「どーしたの。ずいぶんおとなしいけど」
「そんなことないよ。それにしてもほんと真っ暗だね。江ノ島の灯台が綺麗」
「今度行ってみる?」
足元ばかり注意していたわたしは、唐突な誘いに顔を上げる。同時に、石段の陰で寄り添っているふたつの人影を視界の端に捉えた。
「……あ」
「どーした」
「これ以上先に行かないほうがいいかも」
わたしの視線の先を追った仙道くんは「ああ」と納得したようにつぶやき、ゆっくりと方向転換をする。
「邪魔しちゃ悪いもんな」
「うん」
頷いて、ちょうど重なろうとしているシルエットから慌てて目をそらす。そんなわたしの挙動にのんびりとした声が頭上から響いた。
「ちゃんはないの」
「何が?」
「キスしたこと」
突拍子もない質問に、ごまかす余裕もなく反射的に首を振る。
他愛もない話は散々していてもこの手の話題は初めてで、その上今まさにその現場を目撃したばかりとあって、ただでさえ速さを増していたわたしの鼓動は一気に跳ね上がった。
「ないよ。彼氏だっていないのに」
「今はいなくても前はいたりしたんじゃないの」
「前も今もいません。仙道くんは自分を基準にしすぎ」
「心外だなあ」
暗くてはっきりとは見えなくても、眉尻を下げ苦笑しているだろうことは声音でわかる。
そんな仙道くんにわたしの緊張もゆるみ、ようやくいつもの調子を取り戻すとひそかに気になっていた話題を振った。
「たちはどうなんだろう」
「どうって?」
「ああいうこと、もうしてるのかな。その手の話になると恥ずかしがって教えてくれないんだよね」
「そーなんだ。んー、じゃあ言わねーほうがいいのかな」
「え。越野くんから何か聞いてるの」
「いや。偶然見ちゃったんだよね」
「え」
再度同じ言葉を発して仰げば、軽く額を掻いて仙道くんは続けた。
「まさにさっきのふたりがいた場所。あそこって上からは見えちゃうんだよ。そこの道歩いてるとさ。まー歩道もないし歩くひとはめったにいねーだろうけど」
じゃあ何で自分は歩いていたのかと問うのも忘れ、呆然とわたしは黙り込む。予想はしていても実際肯定されると、も越野くんもよく知っているだけに妙に気恥ずかしくて仕方がなかった。
「そっか。と越野くん、やっぱり」
「ショックだった?」
「そういうんじゃないけど……どんな感じなのかなって」
「してみよーか」
今日1日で仙道くんに驚かされたのはこれで何度目だろう。
あまりにさらりと告げられすぎて、気の利いた返しが何ひとつ浮かばない。冗談には冗談で応酬せねばと思うのに、心の底にある打ち消せない好奇心が、わずかな逡巡ののちわたしをちいさく頷かせていた。
「……ひとつだけ、いい」
「うん」
「これからも友達でいられる?」
気まずい間柄になってしまうのが嫌で掠れる声で尋ねれば、仙道くんはしばしの沈黙ののち困ったように瞳を細める。
「ちゃんがいられるなら」
そして言うなり自然な動作でわたしを上向かせると、ほとんど間を置かず唇が重なる。
離れたあともはっきりと残っている感触に無意識に口元を押さえたわたしは、次の瞬間力強い腕にぐいと引き寄せられた。
「後悔してる?」
暗闇でも伝わるよう、はっきりと首を左右に振る。
後悔なんてするはずがない。むしろその逆で、ふわふわとした心とからだをこのまま掴まえていてほしかった。
「……もうちょっとだけ、このままでいて」
「ああ」
「帰りは送るから」と言ってくれた仙道くんに、くすぐったい気持ちでこくりと頷く。
互いの指を絡め歩き出せば、少し前まで袖口にしか触れられなかった自分が、全然違うほかの誰かに思えてならなかった。