どうしようもない僕に天使が降りてきた
――――やばい。
時計の短針は約束の時間の1つ右隣を指している。
つまり、この時点で既に1時間の遅刻だ。
「……さすがにもういねーよなあ」
呑気な独り言が思わず口をついたものの、内心は真剣に焦っていた。
何しろと付き合い始めて半年の間、待ち合わせに間に合ったのは最初の1回だけで、3ヶ月くらいまでは本人曰く「年上の沽券にかけて」許してくれていたものの、遂に直近の遅刻をした際に冷たい怒りが爆発したばかりなのだ。
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「ねえ、彰」
「……はい」
約束した店を出るまで無言だったは、暫くして低い声を響かせると真っ直ぐな視線を斜め下から向ける。いつも穏やかな瞳には鋭い強さがあって、10cmはありそうなヒールを履いて尚20cm以上小さな相手に、オレは弁解すら出来ず完全に圧倒されていた。
「わたしだって怒るんだよ」
「うん」
「今まで許して来たのがいけないんだろうけど」
「いや、そんなことは――」
「次はもう待たないから」
「……はい」
素直に相槌を打つ以外にどうしようもなく、オレは最終宣告を付き付けられる。の性格から考えて、ここまで言ったからには絶対に許さないだろう。即ち、次の遅刻イコール「さよなら」だ。
尤も、さっぱりとしたはそれっきり引き摺ることも無く、その後は普通に楽しく過ごして次の約束を決めてから別れた。
「今度こそオレが先に行って待つから」
これまでを思えば全く信憑性の無い言葉を茶化したりはせずに、は弾けるような笑顔で「うん」と頷く。衝動的に抱き締めながら、オレは絶対に寝坊をしないと誓った。
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――――筈なのに。
「どーすっかなあ」
頭を抱えつつ急いで支度をすると、部屋の鍵を閉めて飛び出す。待ち合わせ場所は、走れば僅か数分で到着する最寄駅の改札だった。今回ばかりは絶対遅れないと誓った為に、敢えて店ではなくそんな場所にしたのが裏目に出たとしか言いようが無い。何せ、駅周辺に時間を潰せるようなところは見事なまでに皆無なのだ。
案の定、到着して辺りを見回してもの姿は無い。ホームの中や直ぐ側にある小さな公園、少し歩くと見えて来るオレの高校まで足を伸ばしてみたものの、どれも虚しい結果に終わった。
「あとどこだ」
徐々に生まれる焦りが言葉となって口から零れる。今までどれだけ遅れても待ってくれていたの姿が無いことに、こんなにも不安と焦燥感を覚えるなんて思いもしなかった。
もしかしたらすれ違いで家に来てるんじゃないか――そんな淡い期待を抱きつつ来た道を戻るも、アパートの周りはしんとして住人の姿すら見当たらない。まるで、この世から自分以外の誰もが消えてしまったような気さえして来る。実際は、たった1人が見付からないだけなのに。
馬鹿みたいにあちこちを行ったり来たり繰り返す。すると、不意にひとつの地名が脳裏へ浮かんだ。2つ隣の駅にある、今日行く約束をしていた場所だ。
「もしかして」
慌てて駅へ引き返し、丁度良いタイミングでやって来た電車へ飛び乗る。5分ほどで降車駅へ到着し、細い道をひたすらに走った。
「っ」
少し行った先の橋を渡る手前で、探し続けた後姿を漸く捉える。相手が振り返る前に腕を掴めば、拍子抜けするほどのんびりした声をは聞かせた。
「どうしたの。彰」
「どうしたのじゃねーよ。ひとりで何やってんだよ」
オレが怒る筋合いなんてこれっぽっちも無いにも拘らず、昂る感情が言葉となって勢い良く飛び出す。けれど、は至って平然とした口調で言った。
「待たないってこの前言ったでしょ」
「え?」
「次はもう待たないって言ったの覚えてないの?」
「覚えてるよ。だからこんなに焦ったんだろ。があそこまで言うからにはぜってー許さねんだろうなって」
「ああ、もしかして別れるって意味だと思ったの?」
「普通そう思うだろ」
いまいち噛み合わない温度に合点が行ったというように、丸い瞳が悪戯っぽく細められる。年上風を吹かせる時のの顔で、見慣れた表情にオレはやっとひと心地がついた気がした。
「わたしが彰と別れたりなんてする訳ないでしょう。それくらい分かってよ」
「だって許さねーって言うから」
「だから待ってあげないでひとりで来たんじゃない。そもそも許さないなんて言ってないと思うんだけど」
確かに、冷静になってみれば「待たない」とは言われても「許さない」は言われていない。
そうに違いないと勝手に思い込んでいただけだ。
「……かなわねーや」
オレがどれだけ動揺したかなんて知る由も無いは、屈託の無い笑顔を見せ再び歩き始める。
「ほら、彰も行くんでしょ。お腹空いたんだから早くして」
「オレも腹減った」
「なら尚更早く。陽が暮れるの早くなったし、あっという間に真っ暗になっちゃう。あ、でもそうしたら灯台から夜景が見れるね」
そんな弾んだ声を響かせる細い肩へ腕を回すと、もう二度とひとりでどこかへ行ってしまわぬようぎゅっと抱き寄せる。そして
「ごめん」
本当は真っ先に言わなければいけなかった言葉を、そっと耳元で囁いた。