ふたつの鼓動
「出たら戻っててね」
この宿は部屋に浴室は無く、男女別に分かれた露天風呂付き大浴場のみの為、紺と臙脂の暖簾の前でわたしたちは分かれる。互いの入浴時間に差が無ければロビーで待っていても良かったけれど、確実にわたしが待たせることになるのが分かっていた為、ひとつしかない部屋の鍵は楓ちゃんに預けることにしたのだ。
「それじゃあ後で」
鍵を手にするとこくりと頷いて、大きな背中が紺色の暖簾をくぐる。わたしも同様に臙脂の暖簾をくぐると、手早く脱衣カゴに衣服を纏めて浴室のガラス戸を開けた。
丁寧に身体と髪を洗い、流した後は申し訳程度にタオルで身を隠しながら露天の方へ赴く。岩場にタオルを乗せると、なみなみと湛えられた湯に肩まで浸かった。
「ふう」
これから朝までのことを思うと、途端に頬が熱くなる。のんびり空を眺めたり夜風に吹かれたりしたかったものの、湯あたりしてしまいそうだ。なので後ろ髪を引かれつつも早々に湯船を後にし、再び洗い場で軽く身体を流すと脱衣所へ戻った。
部屋から持って来た浴衣を纏い、ドライヤーで髪を乾かす。さほど長くも無いので時間はかからない。ブラシで整えた姿を鏡に映し「……よし」と気合を入れると、わたしは足早に部屋へと向かった。
案の定鍵は開いていて、先に戻っていた楓ちゃんがごろりと寝転んでいる。寝転んだ下に敷かれた2組の布団がやけに生々しかった。
「お待たせ」
「早かったじゃねーか」
「うん。もっと長湯するつもりが湯あたりしそうで」
ふっと笑った楓ちゃんは、ゆっくりと身体を起こす。ちゃんと浴衣を着ているのが意外だった。
「丈短くなかった?」
「寝るだけだし問題ねー」
LLサイズを用意してもらったものの、やはり若干短いらしい。とは言え本人の言う通り、浴衣はあくまで寝間着なので、部屋の中で過ごす分には不都合は無さそうだった。
「のど乾いたでしょ。お茶淹れるね……って、髪濡れたままじゃない」
「タオル敷いてた」
さっき寝転んでいた場所には確かにバスタオルが広げられている。布団を濡らさない配慮は良しとして、問題はそこでは無い。
「風邪引くでしょう。それに明日の朝寝癖大変なことになるよ」
「いつものことだし」
「もう。ちょっと来て」
腕を引っ張るようにして起こすと、洗面台へ連れて行く。ドライヤーは部屋にも備え付けられていたので、コードを差すと右手に持ち強風にした。
「届かないから座って」
やれやれというように溜め息を吐き、それでも大人しく腰を下ろす。あらかたバスタオルに吸水されていたのか、そこまで水を含んではいなかった。
「ほんと真っ黒で真っ直ぐだね」
「もそーだろ」
「わたしより綺麗だよ」
楓ちゃんほどどこもかしこも非の打ち所の無い人を見たことが無い。
いつからこうだったんだっけ。と記憶を探ってみても、身体つきを除けば小学生くらいから変わっていない気がする。幼い頃からこの姿を見慣れて来たなんて、自分がいかに贅沢だったのかを改めて思った。
「……はい。乾いた」
仕上げに梳かすと、肩を叩いて終了を告げる。のそっと長身が立ち上がれば、今まで見下ろしていた旋毛はあっという間に目の届かない場所へ行ってしまった。
「うとうとしてた」
「人に髪弄られると気持ちいいでしょ」
返事のように小さく欠伸をし、並んで敷かれた布団の片方に楓ちゃんが寝転がる。「電気消すね」と声を掛けると、もう片方の掛布団の中へわたしは潜った。
真っ暗な部屋の中に沈黙が流れる。
息をすることすら躊躇われるような、しんと張り詰めた空気を破ったのは、半身を起こした楓ちゃんだった。
闇に慣れない目が、自分に覆い被さる大きな影を捉える。掛布団が退けられた後、それ以上の温もりにわたしは包まれていた。
「ん……」
小さく身を竦ませると、唇に柔らかな感触を覚える。そのまま何度も落とされたキスは、次第に深くなって行った。
「は、ぁっ」
零れる吐息は直ぐに飲みこまれ、ようやく解放された唇は息を吸い込む前に小さな悲鳴をあげる。うなじを這う舌は呆気なくわたしを翻弄した。
やがてそれは少しずつ下りて行き、心臓の辺りの柔らかな膨らみで止まる。大きな手のひらの中でかたちを変えられながら、その頂へ与えられる刺激に背中が震えてびくんとしなった。
「――――っ」
しがみつくように両腕を伸ばし、胸元へ埋められた頭をかき抱く。さっき乾かしたばかりの髪が乱れているのがやけに扇情的で、思わずぎゅっと目を瞑った。
長い指が更に下へと肌を這う。初めは躊躇いがちに触れられていたそこが、徐々に潤んだ音を立てる。追い立てられたわたしが途切れ途切れに高い声をあげれば、それを合図のように薄い膜越しでも伝わる熱の塊がゆっくりと挿し入れられた。
荒い呼吸を真上に感じ、うっすらと瞼を開ける。腕の長さ分の距離でぎゅっと眉を寄せ目を閉じた楓ちゃんは、どきりとするほど艶っぽい。あんな顔で求められたら、同じだけ自分も求めたくなってしまう。
わたしの顔の横で突っ張る手のひらをぎゅっと握ると、黒い瞳が姿を現す。かちあった視線が引き寄せるように、楓ちゃんは伸ばしていた肘を曲げてわたしを抱き締めた。
「……好き。大好き」
思わず零れたその言葉に応じるように、楓ちゃんの腕に力がこもる。
暫しそうして互いの鼓動を感じていると徐々に律動が速さを増して行き、果てしなく続くかと思われた時間の後、最奥で弾けたのをはっきりと感じた。
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「……布団ぐちゃぐちゃになっちゃった」
「こっちで寝ればいい」
後処理を済ませ、下着と皺くちゃになった浴衣を再び身に着ける。
暑いと言って下着だけで寝ようとする楓ちゃんにも、無理矢理袖を通させて帯を結んだ。
「一緒の布団でいいの。狭いでしょう」
「いーから来い」
ぐっと腕を引かれ、胸元へ倒れ込む。そのまま掛布団を手繰り寄せると、抱き枕のようにわたしを抱え込んだ。
「明日はどこ行くんだ」
「ライトアップ観に行きたい。今日行けなかったし」
「それは夜じゃねーか。昼間はどーすんだ」
「どうしよう。楓ちゃん決めてよ」
そのままああでもないこうでもないと戯れ合っていれば、触れている箇所から伝わる互いの体温の心地良さに、いつしか揃って眠りに落ちていたのだった。