あなたからキスして
「もういい。先に帰る」
固い声で告げて背中を向けても、追って来る気配は無い。
駆け引きが通用しない相手なことくらい分かっているので、端から期待はしていなかった。
「……楓ちゃんの馬鹿」
足早に歩きながら小さく呟く。こんな喧嘩をしたい訳じゃなかったのに。
++++++++++
久々に帰国した楓ちゃんと、泊まりがけで旅行に来たのは今朝のことだ。
近場とは言え2泊3日の予定で、久々に一緒に過ごせる。それだけで幸せに胸は高鳴った。
並んで座った特急電車で、あらかじめ買ってあったガイドブックを開く。目ぼしいページには付箋が貼ってあった。
「着いたらどこ行こうか」
「の行きたいとこ」
「楓ちゃんはどこか無いの」
「浮かばねえ」
朝が早かったので今にも眠りそうだ。案の定、数ページ捲っている間に隣からは静かな寝息が聞こえて来て、次第に傾いた頭がわたしの肩に乗せられる。正直重たかったものの、直ぐ近くに感じる呼吸と黒い真っ直ぐな髪が幸せで、そのままにしてガイドブックを読み続けた。
やがて、次の停車駅に目的地の駅名がアナウンスされる。まだぐっすり眠ったままの楓ちゃんをそっと揺らして声を掛けた。
「起きて。もう直ぐ着くよ」
「……んー……」
低い声を零しながらゆっくり目を開けて、小さく伸びをする。もっと悪いのかと思っていた寝起きは意外とそうでもなく、左右に首を曲げてもう一度伸びをすると、そのまま立ち上がって座席上の荷物置き場から2つのボストンバッグを下ろした。
「ありがとう」
「おう」
通路側に座っていた楓ちゃんが先に立ち、降車口まで歩く。前を行く背中の大きさを改めて実感し、見慣れている筈なのにやけにドキドキして仕方無かった。
旅館に荷物を預け、適当に見付けたお店で昼食を取った後、今日最初の目的地を目指す。少し歩いた川沿いに、早咲きの桜並木で有名な場所があった。
「ほら、見て。こんな季節なのに満開」
普段見慣れた花びらより濃いピンク色をした、この土地の名前が付いた桜。まだ春とは呼べない時期に見頃を迎えるという話を聞いて以来、一度は見てみたいとずっと思っていたのだ。
川の流れや下草の緑と、たっぷりと咲いた花のコントラストが美しい。風が吹いて花びらが舞うと、一際景色が幻想的になった。
「見事だね」
「そーだな」
「あっちに屋台もあるんだって」
「へー」
「夜はライトアップもされるみたい」
「ふーん」
「夕飯食べたらまた来てみようよ」
「いーけど」
暖簾に腕押しな反応に、次第にわたしは苛立って来る。
日頃からこんな感じのやり取りとはいえ、折角遠出して綺麗な景色を目にしているのだから、もう少し感情を露わにして欲しかった。
「つまらない?」
「そんなことねーけど」
「そうとしか思えないんだけど」
分かりやすく棘の混じった声に、楓ちゃんが大きな溜め息を吐く。まるでわたしが悪いと言われているかのようだ。
それに思わず感情が昂り、勢い任せで口から出たのが冒頭の言葉だった。
++++++++++
ひとりで旅館に戻る道すがら、桜並木の沿道から少し外れた公園を見付け、ベンチに腰を下ろす。
――――折角一緒に過せる貴重な時間なのに、どうして喧嘩しちゃったんだろう。
楓ちゃんは良くも悪くもいつもと変わらないのに、今日に限って何であんな風に突っ掛ってしまったのだろう。
少し前の自分を後悔しつつも、この旅行自体わたしだけが舞い上がっていたように思えて、酷く落ち込んだ。
そのまま暫しぼんやりと物思いに耽っていれば、後ろから誰か近付いて来る気配を感じる。振り向く前に隣に腰を下ろしたのは、当然の如く楓ちゃんだった。
「宿に戻ったんじゃねーのか」
「……まだ早いし」
「さみーだろ。飲め」
ぐいと渡されたのは紙コップに入った甘酒で、意表を衝かれたわたしは両手で受け取って訊ねる。
「どうしたの。これ」
「向こうで配ってた」
確かに甘酒無料サービスの案内は目にしたものの、さっき別れた場所からこの公園とは真逆の方向だった筈だ。
「わざわざ貰いに行ってくれたの」
「さっき屋台って言ってたろ」
「言ったけど」
「これのことじゃねーのか」
至って真顔の楓ちゃんに、わたしは頬が緩むのを隠せない。
あんなさり気ないひと言を、ちゃんと覚えていてくれたのだ。そして、わたしがそこを見る前に帰ってしまったと思い、代わりに寄って来てくれたのだ。
昔から変わらない。ぶっきらぼうで表情に出ないから分かりにくいけれど、楓ちゃんは楓ちゃんなりにきちんと考えた行動をする。
さっきの喧嘩だって、楓ちゃんにしてみればただ相槌を打っていたに過ぎない。それが生返事に聞こえたのは単にわたしとのテンションの違いで、常にフラットな楓ちゃんに他意は無いのだ。そんなこと、とっくに分かっていたのに。
旅先という非日常な空間でも楓ちゃんはいつも通りで、それはきっと遠く離れた地でこれから何年過ごそうとも、何も変わらないだろうことを教えている。どこでどうしていても、楓ちゃんは楓ちゃんなのだ。
そう思えばさっきまで苛立っていた自分が恥ずかしくなって、小さな声で「ごめん」と謝る。何のことか分からないという顔をした楓ちゃんは、真っ直ぐにわたしを見つめるとおもむろに言った。
「オレはが一緒なら何でも良かった」
「え?」
「つまんねーわけねーだろ。どあほう」
呆れたような、それでもどこか優しい声音と眼差しが注がれる。
頭ひとつ分以上高い場所にあるそれを見上げ瞳を閉じれば、静かに下りて来た唇が重なった。
「暗くなって来たし一旦宿行くぞ」
「うん」
空になったカップをゴミ箱に捨て、しっかりと手を繋いで歩き出す。
いつもなら別々の場所に帰るのに、今日は違う。これから始まる夜と共に迎える朝を思うと、どんな顔をしていいか分からないまま指と指をしっかり絡めた。