内緒でキスして


 家の周りで楓ちゃんと過ごすのは緊張する。
 自転車通学が出来るくらいの距離にある湘北は、通っている生徒を近所で見掛けることも多い。つまり、楓ちゃんを知っている人に会う率が高い。
 以前一緒に出掛けた帰りに自転車の後ろへ乗せて貰っていると、すれ違った女の子の集団に物凄い勢いで振り向かれたことがあった。さすがに追い掛けて来たりはしなかったけれど、もしもわたしが湘北に通っていたなら翌日厳しい追求にあっていたに違いない。
 中学の頃はそれが怖くて距離を置いていたのを思い出す。違う学校に通う今は昔ほど気にしなくなっていたものの、突き刺さる視線にはやはり緊張する。見知らぬ相手とはいえ、敵意を向けられて平気でいられるほどわたしは強く無かった。
 なので、前に一度訊いたことがある。
「家まで来られたりしたことは無いの」
「無い」
 即答されて、さすがにそこまでする子はいないのかとほっとした。


 だから、思いもしなかったのだ。
 楓ちゃんの家を出た先で、湘北の制服を着た女の子に出くわすなんて。


 3人組の彼女たちににじり寄られ、わたしは仕方なく足を止める。とてもすり抜けられる雰囲気では無かった。
「今流川くんの家から出て来たでしょう。どうして」
 その中の1人が苛立ちを滲ませたような声で詰問する。強い口調にびくりとして何も言えずにいれば、別の子が再度同じ言葉を繰り返した。
「何で流川くん家にいたのって訊いてるの」
 困惑した頭で無難な回答を考える。付き合っていると言えば更に逆上されそうな気がして、当たり障りなく「幼馴染だから」と答えた。
「この歳になって男の幼馴染の家に遊びに行く?信じられないんだけど」
「お姉さんとも仲良いから」
「なにそれ。自慢なの」
 何を言っても気に障るらしく、わたしはほとほと困り果てる。騒ぎを起こすのも嫌だしどうしようと悩んでいると、次の瞬間刺々しい空気が一気に弾け、代わりに高揚したようなざわめきが彼女たちから広がった。

「なにしてんだ」

 後ろから響いた低い声は、真っ直ぐにわたしへ向けられている。
 振り向けばスポーツバッグ片手に近付いて来る大きな姿があって、この状況でも周りに全く無関心な楓ちゃんに唖然としてしまう。自分へ向けられる好意をここまでスルー出来るものかと、変なところにわたしは感心していた。
 本命の登場に、さっきまでの敵意はどこへやらで彼女たちの表情が華やぐ。口ぐちに何か話しかけるのを完全に無視して、楓ちゃんは慣れた仕草でわたしの手を取るなりすたすたと歩き始めた。

「もしかして家の中にまで聞こえてたの」
「窓から見えた」
「良かった。声が響いてたら迷惑だなって気になってたの」
 そんな会話をするわたしたちの後ろを、少し距離を置いた3人が付いて来る。
 このまま送り届けて貰えるのは嬉しい反面、自宅がばれるのは嫌だな……なんて思っていると、楓ちゃんの足はわたしの家を通り過ぎて数分先の公園に入った。バスケットゴールがある、お決まりの場所だ。
「少し付き合え」
 言うなりバッグから取り出したボールは、綺麗な放物線を描いてネットをくぐる。
 その後もレイアップにダンクに次々と楓ちゃんがゴールを揺らすのを、ベンチに座ってわたしは眺めていた。
 そっと後ろを振り返れば、やや離れた場所に彼女たちはまだいて、興奮した面持ちで見入っている。わたしのことは眼中に無さそうな様子にほっとした。

 暫くの後ボールを手にした楓ちゃんが戻って来て隣に腰を下ろす。
「暗くなって来たしそろそろにする?」
「おう」
 バッグの中から取り出したタオルで汗を拭き、見慣れたドリンクボトルに口を付けた。そして黙ってわたしに差し出して来る。
「ありがとう。でも大丈夫」
 背後に視線を感じて断ったのに、全く意に介した様子の無い楓ちゃんは有無を言わさずボトルを握らせて来た。
「飲め」
「大丈夫だから」
「気になんのか」
 不機嫌そうに言うなり、手にしていた大きなスポーツタオルをばさりとわたしの頭に被せる。
「これで見えねーだろ」
 別の意味で騒ぎが起こりそうな気がしたものの、あの楓ちゃんがここまで気を回してくれたことが嬉しくてこくりと頷く。ひと口含んでのどを潤した。
「ありがとう」
 タオルを被ったまま見上げて微笑む。何故かじっとわたしを見つめているのに「どうしたの」と言い掛けた刹那、両端を掴んだ楓ちゃんにタオルごと引き寄せられた。あっという間に距離がゼロになって唇が重なる。
「……いきなりどうしたの」
 遠くで微かな悲鳴が聞こえ、その後沈黙が流れる。距離があるし、タオルで遮られてはっきりとは見えていないだろうけれど、何かを察したのだろう。いつしか全ての気配が消えていた。
「いなくなっただろ」
 平然と言ってのけた楓ちゃんに、ぽかんとした後わたしは吹き出す。こんな実力行使は予想外にもほどがあった。
「さすがだよ。あんまりびっくりさせないで」
 ふん、と小さく笑みを見せて楓ちゃんが立ち上がる。
 わたしもそれに倣い、被ったままだったタオルを外して渡そうとすれば、その前にもう一度ぐいと引かれて、人目を気にせずさっきより長いキスが再び落とされたのだった。