もう一度キスして


 三井先輩と初めてキスをしたのは、今よりもう少し暖かかった夜だ。
 自主練習を見学して遅くなった帰り道、並んで歩いていると不意に先輩の足取りが重くなった。どうしたのかと振り返れば、物言いたげな瞳が真っ直ぐにわたしへ注がれていて、それに促されるように瞼を閉じる。直に先輩の手のひらが肩へと置かれ、静かに唇が重なった。

 あれから季節は流れ、頬に触れる空気は刺すように冷たい。けれど、その分澄んだ夜空は星が綺麗に見えて、わたしは無意識に宙を仰いだ。
「どした」
「冬っていいなあって」
「マジかよ。どー考えても夏のがいーだろ」
「何で。暑いより寒い方が好きだよ。寒ければ着込めばいいけど脱ぐのには限度があるもん」
「そー言われりゃそーだけどよ」
「でも、先輩に似合うのは夏だね」
 むせ返るほどの熱気に満ちた体育館と、幾ら拭っても後から流れる汗。
 始めはしっかりと整髪料で上げられていた短い前髪が、次第に崩れて額にかかるのを見るのがわたしは好きだった。
「今年は特に濃かったからな」
 どこか遠くを見るような顔で先輩が呟く。
 春先にリョータへ絡んでからの、バスケ部で起こした事件。その後復帰して直ぐにインターハイだったのだ。三井先輩にとって、一生忘れることの出来ない夏になったに違いない。
「だからなのかな。わたし冬の方が好きだけど、今年初めて夏を悪くないと思ったんだ」
「オレの勇姿に惚れたからか」
「自分で言わないでよ」
 にやりと笑みを浮かべた先輩につられ、わたしも吹き出す。その弾みで並んだ距離が近付き、どちらからともなく指を絡めた。
 大きな手のひらにすっぽりと包まれ、こんな冷たい外気でも熱いくらいの体温を感じる。さっきまでかじかんでいた指先も、すっかり先輩の熱で解かされていた。
 滑らかに動くようになった指で、ぎゅっと先輩の手を握る。もうこの手を放すなんて出来ないと思った。
「卒業までもう直ぐだね」
「……そーだな」
「あと何回こうやって歩けるかな」

 進路が決まった3年生は、卒業式までほとんど登校することは無くなる。
 4月になれば居ないことが当たり前になる日常に、今から慣れておかないといけないのだ。
 分かってはいても、その日が着々と近付いているのが怖い。
 三井先輩と付き合い始めてまだ1年にもならないのに、傍らに先輩のいない学校が考えられなくて、自分で口にしておきながら視界が潤んだ。

「声が震えてんぞ」
「そんなことないもん」
「強がんなって」
 繋いだ手は離さぬまま、空いている右手がわたしの頭を優しく撫でる。そのままぐいと引き寄せられた反動で先輩の胸に顔を埋めるかたちとなり、溢れた涙が学ランを濡らすのを申し訳ないと思いつつも止めることが出来ない。
「卒業して終わりじゃねーだろ」
「分かってるけど、寂しいものは寂しいよ」
 もう体育館へも行けない。先輩の不在を感じさせるもの全てを封印してしまいたかった。
 子どものようにそんなことを口走れば、三井先輩は優しく笑ってわたしを抱く腕に力を込める。やがて、頭に顎を乗せられているせいでいつもと違った響きを持つ声が、言い聞かせるようにゆっくりと紡いだ。
「もうオレはあそこに戻ること出来ねーんだからが代わりに聞かせてくれよ。宮城がしっかりキャプテンやってんのか、桜木は相変わらず流川に突っかかってんのか、新しい1年に期待出来そうなのはいるのか、とかさ。卒業したって絶対あいつらのことは気になってんだろーからよ」
「……うん。でも先輩を思い出すのつらいよ」
「バカ。んなこと言ってねーでちゃんと思い出せ」
 言葉とは裏腹にどこまでも三井先輩の声は優しく、包まれる一方だったわたしも両腕を回す。そしてぎゅっと抱きしめれば、頭の上がふっと軽くなり、見上げるとそれまで乗っていた顎が視界に映る。そのまま更に仰ぐと、真っ直ぐな眼差しとかち合った。
「オレが居たってこと忘れんなよ」

 忘れられる筈がない。出逢いが最悪だったが故に、その後見せられた数々の鮮烈な姿を。
 2年間もコートから遠ざかっていたとは思えないくらい、三井先輩の居場所はそこだった。
 赤いラインの入ったバッシュ、膝のサポーター、14の背番号。
 先輩を思い出す時に浮かぶのは決まってその姿で、この1年近くずっと目に焼き付けて来た。
 たとえこの先他の誰かが同じ番号を背負いコートに立っていても、わたしの記憶が上書きされることは無い。未来の14番には申し訳ないけれど――。

「じゃあ、忘れないようにおまじないちょうだい」
「何だそりゃ」
 ふっと笑みを零した三井先輩を見つめ、口を噤んで目を閉じる。微かな吐息が鼻先を掠めたのと同時に、触れるだけだったキスがいつかの夜よりも深いキスに変わった。
「これで大丈夫だろ」
「……うん。その代わり、この先もう忘れろって言われても無理だからね」
「頼まれても言わねーから安心しろ」
 そして角度を変えて再び下りて来た唇を、どこまでも満たされた気持ちでわたしは受け止めていた。