真夏の果実
遠くに行きたい――そう言ったわたしに、さほど驚いた様子もなく洋平くんは「再来週なら」と答えた。
「どっか行きたいとこあるの」
「ううん、特には。ただ遠出がしたいだけ」
具体的な当てなんて何もない。ただの思いつきを口にしただけだ。
にもかかわらず、わずかに首を傾けた洋平くんはしばし考え込むそぶりを見せる。やがて、新しい煙草に火を点すと、白い煙を燻らせながら言った。
「車と電車ならどっち」
「電車。車じゃわたし運転代われないし」
「元々交代してもらうつもりはねーけど」
「ダメ。ただでさえ無理言って付き合ってもらうんだから」
「別に無理なんてしてねーって。でもまあさんらしいや」
ゆったりと笑う洋平くんは、とても年下とは思えない。成人式を迎えて尚、いまだ年齢は彼に追いつけていなかった。
「じゃあ電車で。場所決まってねーから切符は当日だな」
「ほんとにいいの。付き合ってもらっちゃって」
「いーんだって。こーいうのも楽しそうじゃん」
そう言うからには本当に大丈夫なのだろう。洋平くんが無理な約束をしたことは、昔から一度もなかった。
「じゃあお言葉に甘えて」
「そんじゃ、再来週までにはどこ行くか決めといてよ。さん」
「うん」
++++++++++
あっという間に2週間が経ち、約束した地元の駅で辺りを見回す。
すでに洋平くんは改札の脇に立っていて、わたしに気づくなり軽く右手を上げた。
「ごめん、お待たせ」
「いや。オレも今来たとこ。それより行き先決まった?」
頷いてひとつの地名を告げる。ここからなら1時間程度で行ける場所だ。
「そんな近場でいいんだ?」
「うん。たいして遠くないんだけど観光地だし、一応旅行って感じするでしょう」
「まあそーだけど」
「長野とか山梨の高原と迷ったんだけど、今回は突発だしね」
「だな。その辺はまた今度にするか」
どきりとする台詞を零して券売機の前に立った洋平くんは、運賃の書かれた路線図を見上げて確認すると、そのままふたりぶんの切符を購入した。
「ごめん、細かいのないから1000円でいい?」
「いーよ。いらない」
「よくないって」
「いーから。ほら、電車くるよ」
1枚をわたしに渡すなりさっさと改札をくぐり抜けて、急かすように手招きをする。それ以上押し問答しているわけにもいかずあとに続けば、決して嘘でなかった証拠にホームへ滑り込む走行音が聞こえた。
「さん、急いで」
自然と洋平くんに手を取られ、足早に階段を下りる。息を切らせ乗り込むと同時に、背後で扉が閉まった。
「ごめんな。走らせて」
「ううん。これ快速みたいだし乗れてよかったよ」
おかげで停車する駅数が半分で済む。一度だけ乗り換えて20分ほどで目的地がアナウンスされた。
駅を出ると飲みものだけ買い、町の中心を流れる川沿いをぶらぶらと歩く。
ゆるやかな水流はいかにも涼しげで、反射する陽の光を周囲の木々が受け止めている。そのせいか、日頃都会で感じるぎらついた暑さもなく、このままどこまでも歩けてしまいそうな気がした。
「1時間下っただけでえらい遠くまで来た気がするな」
「ほんとだね。すごく落ち着く」
観光シーズンは過ぎているため、思っていたより人出も少ない。喧騒を好まなそうな洋平くんだけに、誘った側としてはひとまずほっとしていた。
「どうせならもっと水際まで降りてみたいね」
「そうするか」
舗装はされていないものの、ひとの足によって踏み固められた階段らしきものが下まで伸びている。前を行く背中に慎重に続いて小石だらけの川縁に降りると、座るのにちょうどよさそうな平らな岩を発見し並んで腰を下ろした。
「水の音っていいよね。癒される」
「入るのは止めときなよ。意外に深そうだから」
サンダルを脱ぐ気満々だったわたしは、その忠告に仕方なく「はーい」と答える。
そんな、子どもじみた返事に苦笑すると、おもむろに取り出した煙草を咥えて洋平くんは言った。
「さんは今日、どうするつもりだった」
「どうするつもりって?」
「帰るのか、それとも泊まるのか」
「んー。せっかくだし、このまま泊まっていこうか」
「―――いいんだ?」
さらりと冗談で流されるかと思いきや、予想外の反応に動揺してたじろげば、口の端から紫煙を燻らせていた洋平くんは、空いたコーヒーの缶に吸殻を捨てると、いつになく静かな声音でゆっくりと紡いだ。
「あのさ、さん。オレもそこまで人間できてねーんだわ」
「え」
「泊まるってのはそーいうことなんだけど、ほんとにいーの」
手持ち無沙汰に空き缶を弄る長い指は、完全に大人の男のそれだ。
横顔の輪郭も肩の厚みも、中学時代から知っている年下の少年ではとっくになくなっている。
戸惑う心を落ち着けようと、大きくひとつ息を吐く。
わたし自身、望んでいる気持ちを否定はできなかった。
「……いいよ」
「自分が言ってること、ほんとにわかってんの」
「わかってる。洋平くんの気持ちも、ちゃんとわかってるよ」
その言葉に初めて驚いた顔を見せると、珍しく照れ臭そうに視線をそらした。
「言わねーつもりだったんだけどな。昔っから何か困りごとがあればさんのほうで声かけてくれたし、だったら別にずっとこんなふうでいーんじゃねーかなって思ってたからさ。今日だって、あんなこと言われなきゃこのままでいるつもりだったんだけど」
「あんなこと?」
鸚鵡返しにしてから何を指しているのかに気づき、頬にさっと熱が集う。たとえ冗談めかしてでも『泊まっていこうか』なんて、思い返せばよく言えたものだ。
そんなわたしに洋平くんは優しく相好を崩し、次の瞬間、強い力で胸の中へと引き寄せた。
「惚れてる女にあれ言われて流せる男いねーから」
耳元で響く掠れた声は熱く、そのまま顔がスライドする。目を瞑る間もなく重なった唇は次第に深さを増して、子どものように翻弄されるしかないわたしはかすかに喘ぐ。そして、このあと待っている一夜への緊張に、ほんの少しだけ逃げ出したい臆病さを振り払うべく瞳を閉じた。