帰れない二人


「もういい。何も聞きたくない」

 必死に続けられる弁明を制し、わたしは家を飛び出す。
 こんな夜更けに行く当てなんてない。けれど、もうひとことだって聞き苦しい言い訳を耳にしたくはなかった。
 ――――よりによってどうして今日なの。
 連れ立って歩く男女は皆やけに幸せそうに見えて、自分が惨めで泣きたくなる。
 ほとんどが店仕舞いを済ませたこの時間、ひとの往来は少なくなる一方だ。女ひとりで出歩くには少々不用心で、わたしは途方に暮れ始めていた。

 ふと、目の端に公衆電話のボックスが映る。
 無意識に財布を掴んできていたことに感謝し、迷わずガラスの扉を開けた。
「0、4、6、6」
 記憶を探りつつゆっくりと番号をプッシュする。無事繋がった回線から響く呼び出し音を祈るような気持ちで数え続けた。
「……いないかな」
 時間も時間なのであまりしつこく鳴らすのも気が引ける。
 5コールで出なければ切ろうと決め、最後の1コールに諦めかけていたそのとき。
 規則正しい音色がぷつっと止み、求めていた低い声が受話器越しに聞こえた。
「夜分にごめんなさい」
「ああ、さんか」
 名乗る前にわたしの名前を口にし、第一声よりやわらかい調子で洋平くんは続ける。
「どうしたの。こんな時間に」
「ほんとごめんね。今大丈夫?」
「大丈夫だよ。つーか後ろでクラクション聞こえたけど外なの」
「うん」
「どこ」
「え」
「行くよ」
 常に先回りしてくれる優しさは昔から変わらない。
 弱り切っていたわたしは遠慮という二文字すら浮かばずに、自分が今いる場所を告げた。


「本当にごめんね。ありがとう」
 20分と経たぬうちに姿を見せた洋平くんに、心の底からお礼を述べる。
「気にしないでいーよ。今日はバイトもなくて暇してたから」
「ありがとう」
「場所変えよっか。こんなとこじゃ落ち着かねーしさ」
「……海行きたい」
「海?」
「うん」
 こくりと頷けば、乗ってきた原付を路肩の隅に停めてキーを抜く。
「行こう」
「それは置いてくの」
さんのメットねーからさ」
 それでもいいと言ったところで、洋平くんは絶対に良しとしないだろう。
 そういうところは知り合った中学時代から全然変わっていない。自分はどれだけ無茶をしようと、わたしには頑なにさせてくれなかった。

 しばらく歩くとやがて潮の匂いがする。凪いだ海で静かに繰り返される波の音は、わたしを子どものように素直にさせて、ふたつも年下の相手に何もかも包み隠さず打ち明けてしまった。
「彼氏に浮気されたの」
「一緒に住んでるんじゃなかったっけ」
「1Rの部屋にね」
「そりゃいづらいよな」
 合点がいったというように苦笑して、咥えた煙草に洋平くんは火を点ける。深く吸い込んだのち吐き出された煙は、白い軌跡を残して宙に消えた。
「前にね、バレンタインのお返し何がいいって訊かれたから時計って答えたの。使ってたのがちょうど壊れちゃったから」
「うん」
「で、今日貰った包みを開けたら今までのと同じだったのね。もともと気に入ってたから別によかったんだけど、それを目にした瞬間彼氏があからさまに慌てた顔したの」
「どういうこと」
「嘘つくの下手な人だからすぐに白状したんだけど、その時計は別の子にあげるやつだったんだって。わたしへのお返しを買いに行ったときに一緒に買ったらしくて」
「わざわざさんが使ってたのと同じやつを?」
「それは偶然だと思う。人気あるデザインだったから欲しいって言われたんじゃないかな。わたしには別のを用意してあったからお揃いにはならないし、問題ないと思ったみたい」
 数時間前に起きた出来事を思い返している内に、沸々と怒りが込み上げてくる。
 次第に悲しみも混じり合って、わたしの心の中はぐちゃぐちゃだった。
「もう信じられない。全然そんな素振りなかったんだよ。見抜けなかっただけかも知れないけど」
 そして散々「許せない」と口癖のようにぼやいていると、2本目の煙草に火を点した洋平くんが穏やかに言った。
「でも許してやらないとな」
「無理だよ」
「別れるのはもっと無理なんだろ」

 ずばっと核心をつかれて、言い返せずに黙り込む。
 やがて、自棄になった頭でひとつの報復策を思い立つと、名案が浮かんだとばかりに息巻いた。

「決めた。わたしも浮気する」
 とてもいい歳をした女の台詞とは思えない浅はかさに、隣りで肩がちいさく揺れる。
 呆れるというより窘めるように笑う洋平くんに、なかば意地になってわたしは食い下がった。
「笑わないでよ。本気なんだからね」
「後悔するだけだよ」
「しない」
「するって」
「しません」
「するよ」
 きっぱりと言い切られて、悔しさに首を振る。思わず感情的に「だってじゃなきゃ気が済まない」と口走れば、ふっと仄かな明かりが消えて、零れ出す言葉ごと唇を封じられた。
「じゃあこれでさんもおあいこ」
 ちいさな赤い火が再び洋平くんの口元を照らす。今起きたことはすべて幻のようで、けれど、確かに覚えている感触がそうではないと教えていた。

 まとまらない頭のわたしをよそに、いつもと同じ横顔は海を眺め紫煙を燻らせている。
 不意に「洋平くんは今日会わなきゃいけないひといなかったの」と聞いてみたい衝動に駆られたものの、結局最後まで口にすることはできなかった。