千の夜と一つの朝
「、こっちや」
新幹線の改札口で忙しなくきょろきょろと視線を動かしていると、全く見当違いの方向からわたしの名前を呼ぶ低い声が聞こえた。
「良かった。南が見付けてくれて。人が多過ぎて全然分かんなかったよ」
「オレはとっくに気付いてたで。せやけどがいつ気付くんかなー思って暫く見とったわ」
「そんなことしてないでさっさと声掛けてよ」
「おもろかったで。さっきから何遍もオレの前通り過ぎよって」
にやりと片側の口角だけを上げた南はいかにも楽しげで、その顔につられてわたしもあっさりと抗議を収める。
「とりあえずお疲れ様。朝早かったんでしょう」
「朝練やっとった時と大して変わらへん。余裕や。新幹線でもずっと寝て来たしな」
「本当?ならいいんだけど」
「せやから早よ案内せえや」
「あ、うん。こっちだよ」
南の腕を軽く取り、数多の主要路線とは逆の方向へ歩き出す。行き交う人の波に、逸れぬよういつしかしっかりと手のひらが繋がれていて、久々に感じる隣へ並んだ肩の高さがわたしを妙にドキドキさせた。
「南、少し背伸びた?」
「前と変わってへんで」
「ほんと?何かまたちょっと大きくなった気がするんだけど」
「が縮んだんとちゃうん。また小さなったんか」
しれっと叩く憎まれ口は、相変わらずだ。普段、電話越しでもわたしたちの会話はこんな感じで、無愛想な声も物言いも全てが南らしさを感じさせる。こうして面と向かうのは数ヶ月振りにもかかわらず、この近い距離に全く違和感は無かった。
「そうだよ。どんどん小さくなってリアル南くんの恋人になるんだからね」
「何やねんそれ」
「そんなドラマあったじゃない。彼女が手のひらサイズになっちゃう話」
「あー、そんなんあったな」
ちゃんと見ていた訳ではないので、詳しいストーリーは知らない。ただ、主人公の男の子が「南くん」だった為に、何となく印象に残っていたのだ。
「あれ羨ましかったなあ」
「アホ。それ以上小さなってどないすんねん。見失うわ」
呆れたように笑う南に、反射的に口を衝き掛けた言葉をわたしは呑み込む。そして、適当な軽口を叩いて話題を変えた。
「今から行く所は間違い無く混んでるから、頑張って探してね」
「何で逸れるのが前提やねん」
やがて目当てのホームへ到着し、停車していた電車へ乗り込む。15分ほどで見えて来た目的地は、その謳い文句通りの夢と魔法で以て、わたしたちに幸せな1日をもたらしてくれた。
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「ホンマはもっとおりたかったんやろ」
閉園まで時間があることもあって、車内はまだ然程混雑していない。さすがに座席は空いていなかったものの、余裕を持ってドア付近に立つことが出来た。
「ううん。最後まで居ると混むし、それにパレードも見られたから充分だよ」
本心で無いことなんて、きっと南にはばれている。それでもそう言うしか無くて、首を振ったわたしはおもむろに視線を腕時計へ落とした。
「それより新幹線の時間大丈夫?最終なんでしょう」
「まだ30分はあるから大丈夫や」
終点の東京駅で降りると、数時間前とは反対に新幹線乗り場を目指し足早に歩く。
約束をした日から今日までは途方も無く長く感じたのに、いざ迎えてしまえばあっという間に終わろうとしている。昨日までと同じ24時間とは到底思えない程、1日は短く呆気なかった。
「まだ、じゃないよ。もう、だよ」
「何が」
「まだ30分じゃなくて、もう30分なんだよ。あとたった30分しかないんだよ」
いつもそうだった。
こうやって会えるのは嬉しい反面、見送る時の寂しさが辛くて堪らなく怖い。
再び声だけの日々に慣れるまで、今度はどれくらい掛かるのだろう。会う度その間隔は長くなって、いずれ切なさに負けてしまいそうな自分をわたしは恐れた。
不意に、さっき一度仕舞い込んだ言葉を思い出す。
それは、今度こそ止まらずに溢れ出した。
「やっぱり羨ましい。わたしも小さくなって南とずっと一緒に居たい。一緒に大阪行きたい」
せめて泣かないようにと俯いたまま唇を噛めば、ひと気の無い物陰で南は足を止め、溜め息と共に伸ばした腕の中へわたしを引き寄せた。
「アホ。が大阪来てどないすんねん」
「だって、こんな寂しいのもう嫌なんだもん」
埋めた胸の温かさに、思わず子供のような我が儘を零す。
すると、暫しの間があった後、頭上から悪戯っぽい声が響いた。
「あのな。驚かそう思って黙っててんけど、オレ4月からこっちやで」
驚きを隠せずに勢い良く仰げば、柔らかく細めた瞳が見下ろしている。幾度も瞬きだけを繰り返すわたしに、遂に耐えられないといった風に南が吹き出した。
「その間抜け面何やねん」
「だって、そんなこと一言も言ってなかったじゃない」
「当たり前やん。今日の最後に驚かせたろ思って、ずっと黙っててん」
「……南のばか」
「大阪人にバカ言うなや」
「ほんっと信じられない。最低」
「声と顔が合ってへんで」
こんな大事なことを秘密にされて、怒りたい筈なのに緩む頬が抑えられない。
どれだけ悪態を吐こうと試みても心に嘘はつけず、諦めて広い背中へ両腕を回した。
「南なんてもう知らない」
「知らない言われてもまた来週来るで」
「来週?」
「引越し来週やねん」
「……どれだけギリギリまで黙ってたのよ」
唖然とするわたしに笑って短いキスを掠めると、思い出したように「今何時や」と呟く。
「20時半」
「ヤバイ。ダッシュや」
「え、ちょっと南、早いってばっ」
腕を引かれ階段を駆け上がれば、待ち合わせた改札口が見えて来る。
切符を手にそこを通り抜ける南を、初めてわたしはずっと笑顔で見送り続けた。