愛を語るより口づけをかわそう
9月に入ったと言うのに残暑は厳しく、ついつい窓を開けたまま朝を迎えたわたしは、目が覚めるなりあちこちに残されていた赤い跡に、深々と嘆きの溜め息を吐いた。
痒いけれど引っ掻けば痕になるし、早く薬を塗ってしまおう。そう思って薬箱を開けてみたものの、目当ての物はどこにも見当たらない。嫌な予感がしてゴミ箱を覗けば、案の定空になった水色の容器が転がっていた。
「ねえ。虫刺されに効く薬ちょうだい」
「それホンマに虫刺されなんか」
一瞬質問の意味が分からなかったものの、直ぐに意図することを察して横目で睨む。
「他に何があるのよ」
けれど、全く気にする様子も無しに南はしれっと言い返した。
「首筋にそんな跡付けとったら普通はちゃうもん想像するで」
「そんなの南だけです」
一昨年引っ越して来た大阪でのお隣さんは、老舗の薬局だった。
基本、明るい笑顔で人の良いおばちゃんが座っているレジは、2週間に一度くらいおよそ客商売に向いているとは到底思えない息子が番をしていて、まさに今日がその日だったらしく、中に居るのは目付きの悪い店員1人だけだった。
「おばちゃんいないの」
「居たらオレがこんなとこ座ってへんわ」
「だよね。まあいいや。とりあえず何でもいいから良く効く痒み止めちょうだい」
「ムヒでもウナでもキンカンでも好きなの選びや」
「……毎回思うけど、南に店番させるくらいなら閉めといた方がいいんじゃないの」
いつかおばちゃんに進言してみよう。いっそ、暇な時はわたしが代わりたいくらいだ。
「」
「ん?」
「どーしたらそんなに刺されんねん」
「家で寝てただけだよ。確かに窓は全開だったけど」
「お前アホやろ。それとも東京には蚊おらんかったんか」
「向こうではマンションで9階だったんだもん」
ある程度の高さになると、蚊はおろか虫というものを滅多に見ない。お陰で一軒家での暮らしに慣れるまでは色々と驚きの連続だった。余り思い出したく無いので割愛するけれど。
「それにしてもホンマ無駄なくあちこち刺されとるな」
「キャミ1枚で寝てるからね。エアコンあんまり好きじゃないし」
すると、にやりと笑みを浮かべた南は、並んだ痒み止めの中から1つの箱を開けてわたしを手招きした。
「自分で届かんとこ塗ってやるで」
「……結構です」
大きな手の中から容器を奪い取って、地道に一箇所ずつ塗り付けて行く。すっとしたメントールの冷たさが気持ち良い。あとはこの赤味が引いてくれるのを待つだけだ。
「まだ塗れてへんとこあるで」
「え、どこ」
「ちょお貸してみぃ」
「変なことしたら大声出すよ」
「いーから貸せや」
再びわたしの手から取り上げると、後ろへ回り込んでおもむろに髪をかき上げる。急に晒されたうなじにびくんと肩をすくませれば、明らかに薬とは違う生温い感触とちくりとした痛みを覚えた。
「……今のなに」
「1つくらい増えても分からへんやろ」
「ちょ、何してんのよ南っ」
「何って、これ以上刺されへんよう虫避けや」
唖然としたまま、たった今増えたばかりの紅い跡へ手を遣る。
少しずつ状況が呑み込めて来るや否や、へなへなとその場へしゃがみ込んだ。
「何でこんな色気も何も無い状況でキスマーク付けられなきゃなんないのよ」
「色気のある状況なら良かったんか」
「そういうことじゃないの。そもそもキスだってしたことないのに」
思わず勢いで口にしてから「しまった」と思う。
何もこの状況で、自ら恋愛経験値の低さを暴露しなくても良かったのだ。
「、今まで男おらへんかったん」
「だったら何よ」
「オレが最初になったろか」
言葉を失った後まじまじと見上げた南は、愛想こそ無いものの、それなりに端整な顔立ちをしている。掴み所の無い性格も、決して悪くはない。
そして何より、告げられた言葉にさっきから胸が騒ぎ続けていた。
これを治める方法は、きっとひとつだけだ。
「……ねえ南。記憶力いい?」
「インハイでオレが相手の赤頭に何て呼ばれとったか知らんのか」
「知る訳ないでしょう。観に行ってないんだから」
「カリメロやで。カリメロってヒヨコやで。3歩歩いたら忘れんねんで。つまりそういうことや」
「3歩歩いたら忘れるのはニワトリでしょ」
「似たようなもんやんけ」
「……全然違う気がするけど」
「ああもういいからさっさと言えや」
焦れったそうに声を荒げた南は、既にわたしが言おうとしていることを分かっている。だからこそ、早くしろと不機嫌に急かすのだ。
その姿が可笑しくて、迷った後見下ろして来る正面に立つ。小さく息を吐き気持ちを整えると、静かに瞳を閉じながら言った。
「お願い」
僅かの間があって、ぐいと手首を引っ張られる。何事かと思わず目を開ければ、店と住居の境まで連れて行かれて、仕切りになっている戸を閉めるなりそこに押し付けられた。
「あんな店のど真ん中で出来るか」
低い声が響いたと同時に、わたしの顔の両側に付かれていた腕が少しずつ曲げられて、短い前髪が額に触れた刹那、反射的に目を瞑る。重なった唇が離れる頃には、自分の心音以外何も聞こえなかった。
「自分、ホンマに初めてやったんやな」
「……だからそうだって言ったじゃない」
「むっちゃ心臓ばくばく言ってんで」
「てか何してるのよ」
いつの間にか後ろへ回った南は、ちゃっかりとわたしを抱き締めている。このままでは頭が沸騰してしまいそうで、どうにか逃れようと必死でもがいた。
「ほら、もうお終い」
「何でやねん。さっきお願い言うたやんけ」
「だからもう終わったでしょ。自分で言った通りちゃんと忘れてよ」
「オレがゆーたんはファーストキスの相手ちゃうわ。最初の彼氏言う意味やねん」
「そんなの知らない。いいから忘れてってば」
「うっさいわ。ドアホ」
短く悪態を吐いて、交差した両腕により一層力が篭る。
「ヒヨコとニワトリはちゃう言うたんやで。絶対忘れたらへん」
同時に、さっきとほぼ同じ場所へもう一度小さな痛みを感じた。
薬は効いたらしく、既にほとんどの跡は残っていない。
けれど、首元に刻まれた2つは当分消えそうに無く、消えた頃にはまた新しく付けられそうな予感がひしひしとする。けれど、それを知られようものなら今すぐ3つ目が増やされそうで、どうやってOKの返事をしようかと、逃げられない腕の中わたしは途方に暮れていた。