Prussian blue
物凄い嵐だった。
持っていた傘は一瞬で、ただの針金の物体と化した。
校門を出た所まで来たもののそこから先へは一歩も進むことが出来ず、仕方なくわたしは校舎へと引き返す。すると、わたしと同じ様に全身滝に打たれたかの如くずぶ濡れの人物が、昇降口の軒下に立っていることに気付いた。
「牧くん」
「おう」
「部活帰り?」
「ああ。折角シャワー浴びたのにこの有様だ」
力なく笑った牧くんはいつもの堂々とした彼よりも数倍親しみやすい。
同じクラスでバスケ部主将を務める彼は、県下では「帝王」なんて呼ばれているらしい全国区のプレイヤーだ。その称号に恥じない堂々とした体躯と褐色の肌で、同じ制服を着ているのが不思議なくらい落ち着いた容貌をしている。こうしてふたりで並んだ姿がガラス戸に映っていても、まるで教師と生徒にしか見えないくらいだ。
「それにしても寒いね」
ハンカチで拭いた程度では何の足しにもならないくらいにずぶ濡れな上、今は10月なのだ。水に濡れて気持ちいい季節には程遠い。言った側から歯がかちかちと鳴り出して止まらなくなった。
「当分帰れそうもないし、部室にでも行くか」
我が校のバスケ部は全国屈指の強豪だ。私立だからいい宣伝にもなるということなのか、他の部に比べ色々な面でかなり優遇されている。
体育館に隣接したシャワー室に個人ロッカー完備の部室。空調機能にキッチン、広々とした畳の部屋までついたそこは、長期の合宿も余裕で行える快適さだともっぱらの噂だ。
「わたし入って平気なの。部外者なのに」
「キャプテンと一緒なんだから気にするな」
「じゃあ遠慮なく。でもその前にちょっと家に電話かけてもいいかな」
「そうだな。はこんなに遅くなることないんだろう。連絡は入れておいた方がいい」
「だよね」
もう20時を回っている。いつもならとっくに帰宅している時間にまだ戻らないわたしを、家ではきっと心配している筈だ。
「お待たせ」
「大丈夫か」
「うん。心配してたけど、電車も止まってるみたいだし。どっちにしてもまだ帰れそうもないみたい」
「この雷雨じゃな」
「だから逆にまだ学校で、クラスメイトと一緒って言ったら安心してた」
そう言って笑ったわたしに、同じように笑顔で返した牧くんが少しぎこちなかったのは気のせいだろうか。
「こんな夜の学校に居たことないから、何だか楽しくなって来た」
「まあな。普通こんな時間まで居ないよな」
「牧くんは珍しくないの」
「ああ。今日はこんな天気だったから早めに切り上げた」
「早めに切り上げてこの時間?」
「全体練習は終ってもその後残って何だかんだやってるから、大体いつももっと遅くまで居る」
「頑張るね」
「冬の予選も近いからな」
そんな感じで牧くんの部活話を聞いている内に、体育館に到着する。
「さすがにもう神も居ないか」
「神くんって、2年生の?」
「ああ。大抵神が一番最後だ。あいつはシュート500本打つまで帰らないからな」
「500本のシュートって、数えてるだけで気が遠くなりそう」
それに吹き出した牧くんを余所に、わたしは倉庫へ向かう。そして、バスケットボールを1つ持ち出すと牧くんへ向けて放った。
「何かやって見せて」
「派手なプレイは得意じゃないぞ」
「いいの。何でも。あ、じゃあ、レイアップ見せて」
いわゆるドリブルシュートというやつが、わたしは好きだった。ふわっと身体が宙に浮く瞬間が、何度見ても不思議にドキドキさせられるのだ。
牧くんは仕方ないな、という風に苦笑してドリブルをすると、わたしの目の前を走り抜け綺麗なフォームを見せてくれた。
「これでいいのか」
「うん。わたしそのシュート見るの好きなんだ」
「こんなので満足してないで、試合をちゃんと観てくれ」
そう言って笑いながら倉庫にボールを片付け、部室へと続く階段を上って行く。バスケ部の部室はこの体育館の2階にあるのだ。
「ほら、寒いんだろ。行くぞ」
慌てて階段を上ると、既に鍵を開けた牧くんがドアを開けて待っていてくれた。
「ありがとう」
そして、わたしの背後で扉が閉まった。
+++++++
「暖房入れるか」
「ううん。大丈夫。あ、でもタオルがあったら貸してほしいな」
「タオルって、いくら拭いたところでそれじゃ変わらんだろ。着替えた方がいい」
出来ることならそうしたくても、部活動をしていないわたしは学校に着替えなんて置いていない。それを告げると、牧くんは少し考えた後言った。
「オレのでよければ着るか」
「そうしたら自分の着替えが無くなっちゃうんじゃないの」
「替えは何枚もある」
そう言って牧くんは隣のロッカールームに向い、予備に置いてあったらしいTシャツを1枚取って来てくれる。
「着替え終わったら呼んでくれ」
「ありがとう。じゃあ遠慮なく借りるね」
そして再び部屋を出ると、もう一度隣室へ向かった。
自身も着替える為だとは言え、わたしに気を遣っての行動に違い無い。なので、急いで濡れた制服を脱ぐと手渡されたTシャツを纏い、扉越しに聞こえるくらいの声を上げた。
「お待たせ。もう大丈夫だよ」
戻って来た牧くんは部活用のジャージに着替えていて、何故かわたしの姿を見るなり言葉を失う。
「……おい。何で下に何も穿いてないんだ」
「だって牧くん上しかくれなかったから。スカートもびっしょりだったし、それにこのTシャツ大分大きいからワンピースみたいでしょう」
実際そう思ったから躊躇わずこんな姿になったものの、指摘された所為で急に自分の格好を意識してしまう。それは牧くんにも伝わってしまったのか、わたしたちの間に流れる気まずい沈黙。それを破ったのは、窓を震わすような大きな落雷の音だった。
全ての照明が消えてしまい、咄嗟に悲鳴を上げる。昔から暗闇が苦手で、夜眠る時すら小さな灯りを点しておくわたしにとって、この状態でパニックを起こすなと言う方が無理だ。
「落ちたみたいだな。、どこだ」
「ここっ。牧くんはどこなの」
半泣きで自分の居場所を訴えると、微かに人の動く気配がする。
「動くなよ。オレがそっちに行くから」
「うん」
少しずつ闇に目が慣れると、うっすらとジャージの紫が見えた。
「ほら。大丈夫だ」
あやすように言って、牧くんの大きな手が頭を撫でる。震えながらこくりと頷けば、次の瞬間強い力で抱き締められた。
「牧、くん」
「怖いんだろう」
「うん。でも――」
「でも、何だ」
低い声で鸚鵡返しに問われて、わたしは言葉に詰まる。
確かに漆黒の闇は恐ろしい。けれど、身じろぎすら出来ない両腕の力も同じくらい怖い。
胸元に顔を埋めたまま何も言えずにいれば、一瞬ふわりと浮いた身体が直ぐに沈み、自分の下に熱い体温を感じる。腰を下ろした牧くんの脚に座らせられたのだろう。そして再び、胸の中へ引き寄せられる。
「まだ震えてるな」
「怖い、の」
「……灯りが点くまでの我慢だ」
それっきり牧くんは口を噤み、静まり返った空間には再び落雷を起こしそうな激しい雨音だけが響く。
けれど、今わたしが恐れているのは暗闇でも雷鳴でもない。
灯りの点った室内で、牧くんが今どんな顔をしているのか。それを見るのが何よりも一番怖かった。