温もりに泣きたくなった


 わたしはテニス部でマネージャーをしている。部長を務める彼氏と別れたのは1年前だ。そして、1年経って出来た新しい彼女が、同じマネージャー仲間のちゃんだと聞かされたのは、ついさっきのことだった。
 教えてくれたチームメイトは、1年も経っているからと何気なく口にしたのかも知れない。
 けれど、わたしの中ではもう少し整理する為の時間が必要だったらしく、思った以上にダメージを受けている自分が自分でショックだった。
 とは言え、他の部員がいる前ではそんな素振りを見せる訳にもいかず、何てことの無いように冷やかし混じりに笑って見せて、不自然さがばれるより先にその場を離れる。早く遠ざかろうと言わんばかりに階段を駆け下りれば、昇降口に到着する手前で見慣れた顔に遭遇した。

「今からか」
「うん。牧も今から?いつもより遅いんじゃないの」
「ああ。委員会が長引いたからな」
「そっか。頑張ってね」

 同じクラスでバスケ部主将の牧は、部長同士ということもあってか元彼とも親交がある。なので、例の件も既に耳に入っているかも知れないと、そそくさと手を振って立ち去ろうとすれば、まるで世間話をするように何気ない声が後ろから響いた。
「あいつ、と付き合い始めたんだってな」
 牧に下世話な好奇心が無いことくらい、これまでの付き合いから重々承知している。今だってきっと他意は無く、もしもあるとすれば、わたしを気遣った結果がつい口を衝いてしまったのだろう。
 それは分かっていても、放っておいて欲しかった気持ちは否めない。
 恨めしい気持ちで振り返ると、溜め息混じりに零した。
「……牧も知ってるんだ」
「悪い。さっきまで一緒だったんだ」
「そっか。あの人も体育祭実行委員なんだよね」
 牧と同じように、我が部長も最近練習の開始に遅れることが何度かあったのを思い出す。結局、不在が気になる程度には未だ意識していたのだ。

 認めてしまえば多少は楽になって、誰かに話したら気持ちの整理が付きそうな気がする。
 目の前の相手は、それに打ってつけだった。

「今日って練習の後予定とかある?」
「いや。特に何も無い」
「少しだけ時間くれたら嬉しいんだけど」
「遅くなるぞ。大丈夫か」
「大丈夫。うちの部も最近終わるの遅いし、部室で待ってる」
「分かった。じゃあまた後でな」
 頷いて体育館の方へと消えた牧を見送り、靴を履き替えるとグラウンドへ急ぐ。
 四方をフェンスで囲まれたコートからは、既に打球の音が聞こえ始めていた。


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「待たせたな」
「ううん。お疲れ様」
 色々と理由を付け最後まで部室に残っていれば、1時間もしない内にがらりと扉が開いた。
 制服姿に着替えた牧は、まだ髪が湿っている。急いで来てくれたに違いなく、わたしは改めて感謝を伝えた。
「疲れてるのにごめんね。ありがとう」
「いや。歩きながらでいいか。もうじきここも閉まるからな」
 最後の部が終わるのを待って、部室棟には鍵が掛けられる。ラストは大抵バスケ部だった。
は同じ方向だったな。帰りがてら丁度いいだろう」
「そう言えば隣駅なんだもんね」
 そんな話をしながら校門を後にし、駅までの道のりを歩き始める。すっかり陽が落ちた暗い小道でも、牧が隣に居てくれれば少しも怖くなかった。
「こんな風に誰かと並んで帰るのなんて久し振り」
「そうか?テニス部がつるんで帰るのを良く目にするぞ」
「誰か、って言ったでしょう。みんな、じゃなくて。大勢で帰るのも楽しいけど、やっぱり全然違うよ」
 まして、最近では一番居て欲しい相手がその中に居ないことも多々あって、そんな時は決まってちゃんの姿も見えない。
 そう。認めたくないから知らない振りをしていただけで、本当はとっくに分かっていたのだ。
「1年も経つし、もう吹っ切ったつもりでいたんだけどね。意外に諦め悪かったみたい」
「まあ、きっかけが無いとなかなか踏ん切りは付かないんだろうな。そう考えれば良かったんじゃないか」
「……そうだね。うん。そうかも」

 ほとんど導き出せていた答えは、牧によって後押しされる。
 自らを納得させるべく頷くと、ずっと掛かっていた靄が少しずつ晴れて行くのを感じて、久々に心から清々しい気分になった。

「わたしも早く次に進もっと。春ももう終わるしね」
「どういう関係があるんだ」
「春は出逢いと別れの季節って言うじゃない。1年越しでどっちも経験したんだからもういいかな、って」
「なるほどな」
 ゆったりと笑う顔は優しく、つられて頬を緩めれば穏やかな空気が流れる。居心地の良さはいっそ戸惑うほどで、徐々に生じて来た緊張を押し隠そうと口を開いた。
「夏も近いのに、夜はまだちょっと冷えるね」
 昼間こそ大分暖かくなって来たものの、夕刻を過ぎれば意外に気温は低くなる。肩を震わせたわたしを見て、牧はおもむろに提げていたドラムバッグのファスナーを開けた。
「寒いんだろう。羽織るといい」
 渡されたのは紫色が鮮やかなジャージで、どきまぎしつつも素直に袖を通す。
 持ち主そのものに大きなそれは、弱った心を吐露してしまうくらい温かかった。
「こういうの、反則」
「何がだ」
「温もりに負けちゃったらどうするのよ」
 軽く口にしたつもりの言葉は、意図した以上に意味を持ってしまっていて、慌てて「冗談だよ」と笑ってみせる。けれど、真面目な顔をした牧は誤魔化されてはくれずに、濃い色の瞳でじっと真っ直ぐにわたしを見据えた。
「冗談なのか」
「……流してよ」
「出来ればそうしたく無いんだが」

 予想もしていなかった切り返しに、混乱した頭でぶかぶかな襟元をかき合せる。
 唐突に訪れたこの気持ちは、そう遠くない未来、確実にかたちを変えるだろう予感がしていた。