肩を抱き寄せて


「適当に座っててくれ」

 初めて訪れた彼の部屋は、想像以上にシンプルだった。荷物はほとんど無く、わたしの部屋より余程片付いている。
「本当にここに住んでるんだよね?」
「おかしなことを言うな」
 苦笑混じりに言って、飲み物を用意してくれた牧くんは、運んで来た2つのカップをローテーブルの上へ置いた。そして、いかにも普段使いらしい方を自分の前に寄せると、もう片方をわたしの手元に近付ける。
「コーヒーしか無いんだが大丈夫か」
「うん。頂きます」
 本当はミルクと砂糖が欲しかったものの、この部屋に用意されているとも思えず、ブラックのままで口を付ける。案の定わたしの舌にはほろ苦く、微かに顰めてしまった眉を牧くんは見逃さなかった。
「砂糖が必要ならあるぞ」
 言うや否や立ち上がり、直ぐにキッチンの方から小さな瓶を手にして戻る。
「無理しないで言えばいいだろう」
「だって牧くんの部屋にあると思わなかったんだもん」
 素直にそう答えれば牧くんは笑って、静かにカップへ口を付けた後言った。
の中のオレはどういうイメージなんだ」
「そんなに皆と違わないと思うよ」
「皆じゃなく小野にとってのオレを知りたい」
 ストレートな言い回しにどきりとし、精一杯に自然を装ってスプーン1杯の砂糖を掬う。ゆっくりとかき混ぜて口元へ運べば、その間もずっと牧くんの視線が注がれているのを感じた。
「正直に言っていい?」
「ああ」
「この部屋がイメージ通りだったかも」
 ゲーム機や漫画雑誌といった、同世代の独り暮らしをする男の子の部屋にありそうな物は何ひとつ無く、徹底的に無駄を排除した部屋。必要最低限の生活必需品だけに囲まれた空間は、1日の大部分を大学と体育館で過ごす彼にとって、一番合理的で暮らしやすい部屋なのだろう。いかにもストイックな牧くんらしい。それをそのまま伝え、更に続けた。
「絶対必要な物しか置いてないんだろうな、って思ってたらその通りなんだもん。砂糖があったのは意外だったけど。甘い物のイメージ無かったから」
「随分堅苦しい男だと思われてるようだな」
「堅苦しいって言うか、ドライなイメージ。バスケット以外には何に対しても執着が無さそう。だからこんなに部屋もシンプルなのかなって思った。飽きたら捨てるって言うより、最初から買わなそう。捨てる手間すら省いてる感じ」


 あくまで「物」について語っているようで、内心わたしは別のことを考えていた。
 高校時代からずっとバスケットで目立つ活躍を続けて来た牧くんに、憧れている女の子は沢山いる。例えバスケに興味が無かったとしても、堂々とした長身に精悍な顔つきの彼は、どこにいても人目を引くのだ。
 それにも拘らず隣に誰も並べないのは、さっきのような理由からなんだとわたしは思っていた。即ち、端から恋愛など始めなければ、その後付随する面倒なあれこれと関わらずに済む。だから、特定の彼女を作らないのだと。

 故に、今こうしてここに居る自分が不思議で仕方が無い。
 ましてや、わたしは彼の意思でこの部屋に来たのだ。


「……どうしてわたしを誘ったの」
「自分でさっき言っていただろう。オレはこの部屋の通りだと」
「どういう意味?」
「本当に必要なものしか要らない」
 言うなりぐいと引き寄せられて、頬が肩へ触れる。黒いニット越しに厚い筋肉を感じ、途端に外へ聞こえてしまいそうなほど、鼓動が激しく早鐘を刻んだ。
「裏返せば、本当に欲しいものは何としても手に入れたい――ということだ」
「そんなの、いきなり言われたって分からないよ」
「嘘だな。はもうとっくに気付いていた筈だ」
 威厳に満ちた声で断言されて、かたちばかりの保身は呆気無く突き崩される。

 ――――そう。本当は分かっていた。牧くんから向けられる視線の意味を。
 けれど、気付かない振りをし続けた。何故なら、始まりには必ず終わりが付いて来る以上、その日を迎えたら躊躇せず断ち切れるだろう彼に、応える勇気が無かったから。
 高校時代からずっと積み重ねた想いは、最早自分自身でも安易には扱いかねていて、手を付けて壊してしまうくらいならば、最初から触れずにいたい。そこまで臆病になるくらい、わたしは牧くんのことが好きだった。

「折角ここまで頑張ったのに。ずるいよ」
 全て打ち明けた後精一杯の恨み言を零せば、わたしの肩を抱いた腕にぐっと力が篭る。軽く預けていただけだった頭はすっかり胸元へと埋める格好になり、力強い心音を耳元で感じた。
はオレをドライだと言ったな。確かにその通りだ。滅多に何かに執着はしないし引き摺ることも無い」
「……うん」
「但し、自ら望んだものは別だ」
 反応に困り上向けば、表情を映す前に視界が塞がれて、柔らかな熱が唇へ押し当てられる。やがて開けた目線の先には見たことの無い顔をした牧くんがいて、動揺を隠すべくわたしは僅かばかりの抗議をした。
「牧くんがこんな強引だなんて思わなかった」
「貪欲らしいからな。オレは」

 きっと、こうやってひとつずつお互いを知って行くのだ。
 これ以上の会話は打ち切りとばかり、重なった身体が柔らかなラグへ沈む。この部屋で唯一温もりを感じさせるそれは、わたしの背中を優しく受け止めてくれた。