月に濡れたふたり


「どれにするんだ」
「……じゃあ、紅茶のやつ」

「飲み直そう」という言葉に頷いた時は、普通にどこかの居酒屋へ行くのだと思っていた。なので、この展開に動揺が隠せないまま1本の缶を指差す。
 ソファーの前に設えられたテーブルの上には、途中のコンビニで適当に買ったビールやチューハイの缶が並んでいる。その中からわたしの選んだ1本を、氷と共に紳一はグラスへ注いでくれた。
「缶のままで良かったのに」
「大して冷えてなかったからな。それとも氷は余計だったか」
「ううん。手間かけさせちゃうのが悪いと思っただけ。ありがとう」

 缶の飲み物をきちんとグラスへ移し替えるような、そういった些細な部分に紳一の育ちの良さは顕れる。
 それは昔から変わっていなくて、すっかり大人びてしまった彼が紛れも無く幼馴染なのだと、漸くわたしを安心させた。

「大学は忙しいの?まさか紳一が独り暮らし始めるなんて思わなかった」
「練習後飲みに行くことも少なくないし、終電を気にするのが面倒になって来たからな。寮が空いてれば良かったんだが生憎一杯だった」
 言ってするりと飲み干したのは、氷だけ浮かべた生のままの洋酒だ。同じ琥珀色でもわたしの手にしたそれとは桁違いにアルコール度数が高い筈で、にも拘らず平然とした様を見せているのは流石としか言いようが無い。
 イメージを裏切らない酒の飲み方に、ずっと思っていた本音が零れた。
「紳一みたいなひと見たこと無い」
「いきなり何だ」
「普通誰でも見た目を裏切ったり第一印象と違う部分って必ずあるのに、紳一は面白いくらいにそのままだよね。外見と中身が全く同じなの」
「褒められてるのか貶されてるのか分からんな」
「褒めてるんだよ。見た目も性格も大人だって」
「一応言葉は選んだのか」
「まあね」
 冗談めかして言えば紳一は苦笑し、大袈裟に溜め息を吐いて見せる。そして、空いたグラスを手に立ち上がると、新たに作り直す為かキッチンへ向かった。
 無意識に目で追い半身を捻ったわたしは、ソファーの背越しにぼんやりと後姿を眺める。
 高校で既に完成済みだと思っていた身体は、大学入学後更に厚みと風格が増した。身長も若干伸びているのが、こうして少し距離を置くとはっきりと分かる。中学卒業以来ほとんど変わっていないわたしとは差が開く一方で、偶に隣に立つ度落ち着かない気持ちになった。
「どうした」
 視線を感じたらしく、おもむろに紳一が振り向く。
 顔を見る限り、酔っている様子は微塵も無い。ただ、声だけがどこか違って聞こえ、戸惑ったわたしは慌てて首を振った。
「ううん。何でもない。気にしないで」
 なのに、発した自分の声までもが確実にいつもと違う。
 隠せないほどに滲んでいるのは、明らかな緊張の色だ。
「どうした。
 もう一度同じ問いを繰り返した紳一が、ゆっくりとこちらへ歩み寄る。折角作り直したグラスがステンレスの台へ置かれた刹那、キッチンの蛍光灯が消えた。その、真昼の健全な明るさに例えられる昼白色に代わって、夕暮れを思わせる白熱灯の明かりだけが室内を照らす。それすらも徐々に明度が下げられて行き、ランプのように仄かなオレンジの光の中で、不意にわたしは抗えない力に抱きすくめられた。

「あまりオレを買いかぶるな」

 直後、さっきまで敷いていたクッションを背中に感じ、圧し掛かる肩越しに天井が映る。塞がれた唇は吐息が漏れたタイミングで侵入を許してしまい、蠢く熱に呼吸すらままならない。
「……やっ、待って――」
「待たない。もう充分だろう」
 僅かに顔を上げた紳一は、真っ直ぐにわたしを見下ろして掠れた声で続ける。
が好きだ。もう、ずっと昔から」
「紳一、酔ってるんでしょう。やだよ。こんなの」
 隠し切れないアルコールの匂いが、紳一の言葉を素直に信じさせてくれない。
 酔った勢いで流されてしまうには、7年という歳月は長すぎる。
 7年――即ち、わたしが紳一を想い続けた年数だ。
「わたしはずっと紳一が好きだったのに」
 硬い声で告げながら、こんな風に告白することになるなんて思いもせず、悲しさと悔しさで唇を噛む。ぼやけた視界にぎゅっと目を瞑れば、反動で溢れた涙が頬を伝った。
「だから、どいて。帰る」
 一瞬怯んだ紳一の胸を押し、組み敷かれた下から逃れるべく身体をずらす。けれど、ソファーから床に足が着く寸前で、両肩を掴んだ手のひらが元の体勢を強いた。
「どうして自分だけだと思う」
「え?」
「どうして、オレもと同じだったと考えないんだ」

 憤りを露わにした声に、逸らしていた顔を真っ直ぐに向ける。
 少しも揺るがない焦茶の濃い瞳は、嘘が無いことを何よりも雄弁に物語っていた。


 暫しの後、沈黙を破るように「ごめん」と短く口にすると、今更ながら酔いが回って来たのか全身の力が抜けて行く。くったりと大人しく委ねていれば、珍しく余裕の無い手付きで紳一はわたしのブラウスに指を掛けた。性急にボタンが外されて外気に触れた肌は、寒さを感じるより先に重ねられた温もりに震える。
の身体は随分冷たいんだな」
「紳一の体温が高過ぎるんだよ」
 子供のように高いそれを似つかわしくないと思う反面、褐色の肌は馴染み深い太陽そのものだとも思う。結局、どんな意外性も全て馴らしてしまうのが紳一なのだ。
 そんな彼に対し、何もかも正反対なわたしは月だ。白い身体はひとりで熱も生み出せない。だから、早く温めて欲しい。

 冷え切った指を絡めれば、求めたものは直ぐに与えられる。
 何もかも敵わずに溶かされてしまうのは、あともう少しだった。