優しい雨


 ―――最悪。

 予報を信じて傘を持ち歩いていた時はことごとく裏切られたのに、忘れた日に限って見事な的中率を発揮させなくたっていいと思う。
 確かに降水確率80%と告げてはいたかも知れないけれど、ほんのついさっきまで空は明るかったのだ。会社を出る際に置き傘を持とうかどうか迷った挙句「走ればどうにかなるだろう」と楽観的観測を立てたわたしに非は無いと思う。

 雨宿りする場所など皆無な路地裏で踏み切り待ちをしながら、恨めしい思いで朝観た天気予報士の顔を思い浮かべる。踏んだり蹴ったりとはまさに今のわたしのことだろう。雨はますます酷くなるというのに、さっきから何本も嫌がらせの如く通過列車が続き、一向に遮断機の開く気配が無いのだ。
 ほとんどシャワー同然に降り注がれる雨を全身に浴びながら、泣きたい気分で盛大な溜め息を洩らし、そして八つ当たり気味に足元の水溜りを蹴飛ばした時。
 不意に頭上の雨が遮られ、驚いて顔を上げればびっくりするほど長身の男の子がわたしに傘を差し掛けていた。
「えっと……ありがとう」
「大丈夫ですか」
「うん。もう、本気で途方に暮れてたの」
 心底助かった、という思いが声に滲み出ていたのかも知れない。何とも情けない響きを含んだわたしの言葉に、その少年は柔らかく瞳を細めにっこりと微笑んだ。
 改めて見れば、その子はかなり格好良かった。さっぱりと短く整えられた髪にくりっとした二重の目が印象的で、この年頃の少年にありがちな粗野な部分は全く感じられず全身清潔感で溢れている。
 制服姿で『KAINAN UNIV.』と入ったドラムバッグを斜め掛けにしているということは、海南大付属高校の生徒なのだろう。
「随分背が大きいけど、バスケかバレーでもやってるの?」
 何ともステレオタイプな質問だと思いつつ、ここまでの長身には滅多にお目にかかれないという好奇心からわたしは訊ねる。
「バスケです」
「やっぱり。でも海南のバスケ部なんて凄いね」
 高校を卒業して早何年のわたしでも、海南大付属がバスケットの名門校だということくらいは知っている。スポーツの強豪校なんてそう滅多に数年で変わったりしないものだ。
「今年も全国行きましたよ」
 謙遜せずに事実を口にする所も好感が持てる。嫌味無く聞こえるのはきっと、彼の持つ天性の品の良さだ。

 どうしよう。この子、凄くいい。
 この際自分が幾つ年上だとか、そんなことは忘れてしまおう―――。

 そう決めたわたしは、新たな情報を得ようと素早くあちこちに目を走らせ、そしてようやく名前と思わしき情報を見つける。ドラムバッグに小さく刺繍されたそれは、アルファベットでたった3文字『JIN』と刻まれていた。
「ジンくんっていうのは苗字?それとも名前?」
 昔から物怖じしない性格だと言われて来たけれど、この時ほどそれが長所だと思ったことは無いかも知れない。躊躇わずにすらっとそんなことが聞けてしまう自分を、我ながら心より褒めてあげたい。
 ジンくんはさすがに驚いた顔でまじまじとわたしを見つめたけれど、女性からの勇気を振り絞ったアプローチを無下にするなんて野暮なことは、思った通り彼の辞書には載っていなかった様で『ジン』というのは苗字で神宮の神と書くことや、下の名前は何とも古風に『宗一郎』だということまで字面の説明付きで教えてくれた。
「神宗一郎くんっていうんだ。何か凄くイメージに合ってる」
「そうですか?」
「うん。雰囲気が思いっきり和のテイストで育ちも良さそうな感じがぴったり」
「……育ち、ですか」
「そう。だって明らかに年上の見ず知らずな女に、こんな風に自然に傘を差し掛けられる高校生なんて滅多に居ないと思うよ」
 結局わたしは駅までずっと神くんのお世話になり、こうして他愛も無い軽口を叩いて来た訳だけれど、相手が初対面の高校生だってことを考えたら、実はこれって結構凄いことなんじゃないかと改めて思う。
 そんなことを年上風吹かせて語ったわたしに、彼は終始穏やかな笑顔を見せたまま、しかしさらりとこう言ってのけた。
「育ちはそんなに良くないですよ。さっきからずっと、どうやって名前を訊き出そうかと考えてるくらいですから」

 鳩に豆鉄砲とは、まさにこの時のわたしを指すのだろう。
 どうしたらこのまま別れずに済むかとあれこれ策を練っていたというのに、馬鹿馬鹿しくなるほどにあっさりと神くんはそんなものを吹き飛ばしてくれたのだから。

 ―――多分この先、この子には敵わないだろうな。

」と告げたわたしの名前から「さん」ではなく「さん」とごく自然に下の名を神くんは口にして、そしてそれが全てを物語っている気がした。