世界中の誰よりきっと



 すれ違い様掛けられた声に振り向けば、目が合った瞬間微かな緊張が流れる。
「……藤真くん?」
「やっぱりだったか。久し振りだな」
「ほんと、久し振りだね」
 自然な笑顔が作れていることにほっとするのは、相手が高校時代に別れた彼氏だからだ。

 こんな日を何度想像しただろう。
 いつか再会する日があるのなら、綺麗に笑って見せたい。
 それは、気持ちを残したままの別れを経験した誰もが抱くであろう、ささやかな見栄とプライドだ。

「仕事帰りか」
「うん。藤真くんは?」
「オレは部活帰り。大抵こんな時間だよ」
「そっか。相変わらず頑張ってるんだね」

 名前の無い関係の今だから、気負わずに言える。
 付き合っていた当時は、寝ても醒めてもバスケット一色の彼に、わたしの方が余裕を失っていたのかも知れない。身体を壊さないか心配だったし、一緒の時間が作れない寂しさに耐えられなかった。そして、次第に刺々しく柔らかさを失って行ったわたしは、自ら離れることを選んだのだ。

「別れよう」と告げた時、藤真くんは何も言わず頷いた。
 引き止める素振りなんて欠片も見せてくれず、自ら切り出しておきながら傷付いたのは苦い記憶だ。
 もしもわたしから切り出さなければ、きっと向こうから告げられていたに違いない。結局、振られたも同然なのだ。

 そんな別れ方をした相手を、完全に忘れるにはもう少し時間が足りない。
 何てことの無い会話をしながらも、声が震えぬよう必死だった。
「ここで立ち話も何だし、時間大丈夫なら場所変えないか」
「そうだね」
 頷いて、大通りへ続く道を並んで歩く。
 制服姿で無いのが不思議なくらい、隣の藤真くんはあの頃と変わっていない。
 そんなことをぼんやりと思っていると、皮肉にも全く逆の台詞が耳に届いた。
「何か変わったな。お前もう少し小さくなかったっけ」
「ヒール履いてるからじゃない?昔はローファーだったから」
「すっかりOLって格好だもんな。さっきも声掛けんのちょっと迷ったんだよ。人違いかもってさ」
「そんなに変わった?」
「見た目はな。こうして喋ってると昔のままだけど」
「懐かしいね」
「そうだな」
 過去に繋がる会話は自ずと沈黙を運んでしまい、無言のまま足だけを進める。やがて適当な喫茶店を見付け入ろうとすれば、自動ドアが開く寸前で腕を掴まれた。
「悪い。もう少し歩きたい」
 真昼のような明るさの店内は、確かに少し眩し過ぎる。
 今のわたしたちに必要なのは、何もかも露わにする真っ白な光ではないのだ。

 結局、仄かに街灯だけが照らす公園で落ち着き、ベンチへ浅く腰を下ろす。同じように座った藤真くんは、暫し逡巡する様子を見せた後、おもむろに口を開いた。
「オレさ、あのまま終わっちゃったのを結構後悔したんだよ」
「え?」
「別れようって言われたじゃん。から。あん時は仕方ないって納得したから何も言わなかったし、何も言えなかった。原因がオレだって分かってたからな」
「……うん」
「だから、別れたくはねーけど別れた方がいいと思ったんだ。は大事だけど、だからってバスケ辞めたりは出来ねーからさ」
「知ってる。わたしだって辞めて欲しいなんて思って無かった――とは言い切れないかな。今だから言えるけど」
 冗談めかしてみたものの、それは勇気の要る告白だった。本当に、別れた今だからこそ躊躇わずに言えたのだ。
「わたしも子供だったってことだよ。だから気にしないで」
の中ではもう全部片付いてんのか」
 その問いに答えを迷うのは、NOだからだ。そして、藤真くんはそれに気付いている。
「オレはさっき言った通りなんだけど、はどうなんだよ」


 一度壊れた仲は、完全に元には戻らない。
 どんなに上手く接いだところで、痕は必ず残るからだ。
 そこから少しずつ綻んで行って、今度こそ完全に修復が不可能になるかも知れない。
 綺麗な想い出としてかたちに残すことすら、出来なくなってしまうかも知れない。

 けれど、それでも。
 今向けられている真っ直ぐな眼差しに、嘘は吐けない。


 散々泣いて結論を出したあの頃のわたしに詫びつつ、数年ぶりに偽りの無い本心と向き合う。目を瞑り一呼吸吐くと、震える声でゆっくりと紡いだ。
「片付いてないよ。今でも引き摺ってる。藤真くんのこと」
 どんな顔をしていいか分からずに、ほとんど泣き笑いで見つめ返す。刹那、ごく弱い力に包み込まれた。
「あー、緊張した」
「なにそれ」
「さっきも言ったけど、すっかり大人びたからさ。もしかしたら彼氏いんじゃねーかなって思ってた。とっくにオレのことなんか吹っ切ってんじゃねーかなって」
「そうだったら良かったんだけどね」
「馬鹿。ちっとも良くねーよ」
 拗ねたような口調が可笑しくて、からかい半分に積年の恨み言をぶつける。
「一度藤真くんを好きになっちゃったら、そう簡単に他の誰かを好きになったり出来ないんだからね」
「……すげー殺し文句だな」
「二度と言わないけど」
「じゃあ次はオレが言ってやる。また別れ話が出た時にな」
「縁起でもないこと言わないでよ」

 わたしの抗議をいなすように、回された両腕が強さを増す。
 押し付けられた胸元に顔を埋めながら、まずは何から話そうかと、藤真くんの知らない時間を緩やかに紐解き始めた。